コラム
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2024/1/15
1895    南紀熊野体験博実行委員会

令和6年1月、元南紀熊野体験博実行委員会の同僚と会う機会があり、当時のことを話しました。久しぶりでしたが、元気で当時と変わりなく元気に仕事をする姿がありました。

熊野古道が世界遺産に登録されてから今年が20年になります。オープンエリア型の博覧会は全国で初めての試みだったので、開会式前はお客さんが来てくれるか不安でしたね。事務局長はオープンエリア型なので人数に拘らないと言っていましたが、博覧会なので成否の目安はやはり人数だと思っていました。

田辺新庄シンボルパークがメイン会場でしたが、南紀熊野エリア全体を会場に見立てた発想は、当時は斬新すぎた感がありますが、今思うと、その地域だけで体験できるイベントを生み出したので、現在につながる財産になっていると思います。

2027年に「大阪・関西万博」が開催されますが、和歌山県観光に誘導する入り口は和歌山県ならではの体験だからです。この「和歌山県ならではの体験」のフレーズは博覧会開幕前の1999年から使っている言葉で、今も和歌山県観光の特徴となっています。

熊野古道を歩く、那智の火祭りに参加する、カヌー体験をするなど、地元にとっては当たり前に実施していることが、県外の人にとっては珍しい体験であり、お金を払ってでも参加したい、見てみたい観光資源になることを博覧会で訴えたのです。

果実の収穫や地元祭り体験などは観光に生かせるとは思っていなかったので、その価値を伝えるために旅行会社に出向いて何度も説明したものです。旅行会社社員さんにも熊野に来ていただき実際に案内をして旅行商品の企画をしてもらいました。プレスツアーでマスコミの方々にも来県してもらい、地元で体験したことを記事にしてもらいました。

それでもどれだけ集客できるか開幕前は見通しが立たなかったので、予想を超える約310万人のお客さんを南紀熊野にお迎えできたことは、スタッフにとって大きな喜びでした。

「あの時は忙しかったけれど、楽しい仕事でした。メンバーも良かったので、楽しいことばかりでした」と話してくれたように、博覧会の仕事は私達のほとんど全員が未経験で、忙しいことが楽しさだったように思います。

マスコミからの問い合わせへの対応、お客さんや旅行会社からの質問や相談、そして県庁職員さんの関心も高く、他の課からの問い合わせもありました。

当時、地元の以外で熊野古道を知っている人も少なくて、僕も実行委員会に入る前はその存在を知りませんでした。中辺路ルートの入り口である滝尻王子から終点の那智の滝までの行程を何日かに分けて歩きましたが「これは古道ではなく山道だ」と思ったものです。

開幕前から閉会迄の期間、田辺新庄シンボルパーク内の事務所で勤務しましたが、博覧会の会場内で仕事をした経験は新鮮で楽しい時間だったと思うのは、博覧会に携わった多くの人の感想です。現役時代に国際博やジャパンエキスポなどの規模の大きな博覧会事業に携われる人は限られているので、良い経験と言うよりも個人の財産にもなっています。

この博覧会は県内市町村に地域イベントという形になった観光資源を財産として残していますが、スタッフの人生にも財産を残してくれました。関わった人は2024年の今も、南紀熊野体験博のことを語ることが出来るのですから。こんな仕事に就ける機会に恵まれたことに感謝しています。

世界遺産登録から20年が経った2024年の今年。当時の実行委員会のメンバーで集まる計画があると聞いています。それが実現するかどうか分かりませんが、一つの事業を達成した仲間ですから、実現すれば同窓会のように一気に当時に戻ると思います。

あれから20年が経過した現在、既に博覧会実行委員会の県庁職員の多くは定年を迎えています。当時の新入職員で22歳だった人が40歳代となり、現在は班長になっているほど年月が流れています。

彼は「班長になりましたが、あの時に班長だった人たちが主体となって博覧会を仕上げたと思うと、凄い方々だったと思います。今、僕が主体となって「やってみろ」と言われても自信がないですね」と正直な感想を話してくれたことがあります。

当時の僕の肩書は広報出展部の課長補佐でしたが、今現在でも、もし実行委員会の課長や部長の役割を果たせと言われたら「自信がない」と思います。偉大な先輩方の実力に脱帽です。でも先輩方に引っ張ってもらえたことが現在につながる道となり、経験を伝えられている基礎になっているように思います。

南紀熊野体験博の話をする時、いつも楽しくなることも携わって良かったと思える嬉しいことです。