コラム
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2024/1/10
1894    岡崎尚ニ先生

地元テレビ局が、岡崎邦輔の銅像と岡崎家に所縁のある岡崎先生を取り上げるきっかけを教えてくれました。

「和歌山駅から市役所を通るけやき通りを特集することを企画していました。けやき通りで県民の方に知らせるべきものがあるか調べていたのです。インターネットで検索してみたところ、片桐さんのブログにヒットしたのです。私達も知らない岡崎邦輔さんという方、しかもけやき通りに銅像があるということを知りました。
さらに片桐さんの高校時代の担任の先生が岡崎家の方だったことも知り、取材をお願いしようと思って連絡したのです。片桐さんのブログにヒットしたことが企画の実現につながったのです」という話でした。

昨年12月、テレビ局から依頼を受けて岡崎先生に連絡をしたところ、取材を引き受けてくれることになり、取材日までに古い写真や家系図、岡崎邦輔が岡崎家に養子縁組をした戸籍謄本などを探してくれました。

取材があった日、岡崎先生は堂々とインタビューに答えてくれていました。

「政界の大物で地元に貢献していました。親戚である陸奥宗光伯の引きがあり政界で力を発揮したと聞いています。陸奥宗光伯がアメリカに公使として渡米する時に岡崎邦輔やグラバーの息子も同行しています。後にミシガン大学に行くことになるのですが、この時の経験が大きかったと思います。
また京阪鉄道の創設に関わり、後に社長になったことから、和歌山市の市電や国鉄の紀勢線などを布設したようです。和歌山県や和歌山市に貢献した人物だと聞いています」と説明してくれました。

政界の大物だったことを証明するように、銅像建立の発起人には元総理大臣の岸信介、佐藤栄作、松下幸之助の名前が刻まれていました。

また個人的な思い出として「家で悪いことをすると『岡崎邦輔さんの銅像を雑巾で磨いておいで』と言われたことがあります。当時は偉い人だと分からなかったので、おじいちゃんって誰だろうと思っていました。私の五代前になりますから、子どもには分からないですよね。岡崎と和歌浦に別荘もあり、和歌浦の別荘は現在喫茶店になっていますが、岡崎の別荘はもう売却していますね。縁側のある、随分広い家だったと記憶していますが、今では懐かしいですね。別荘を売却したのは、所有していた財産は株に投資をして失ってしまったとも聞いています」とも話してくれました。

インタビューは堂々と受けていたのですが、後で話をすると「緊張したわ」と笑って話してくれました。僕から見ると、先生は全く緊張しているようには見えなかったのですが、先生は話してくれました。

良い機会を提供してくれてありがとう。昨年はもう命がないと思っていたので、テレビ出演は良い思い出になったわ。教え子にこんな機会をもってもらえるとは幸せなことや。

私は教師をして担任をした三人の人物を凄いと思っている。一人は笠田高校の生徒を担任した時にやんちゃな生徒がいた。良く叱った生徒だったが、後に松下電器に行って衆議院議員になったわ。名前は平野博文やけどな。

もう一人は有田市出身で後に教師になった奴や。箕島高校で教えた生徒だったが、とても優秀で勉強しなくてもよくできた生徒だった。中学校の教師になって、早くに校長になったけれど、定年まで3年を残して教師を辞したんだな。教育委員会の方針に合わなかったことが原因だったと覚えているが、彼には叛骨心があったんやわ。

そんな彼に有田市長から「教育長になって欲しい」と声がかかり教育長に就任して教育改革に取り組んだわけやわ。教育委員会に楯突いた彼が教育長になるなんて世の中は不思議なもんやな。

そしてお前や。県会議員になって活躍してくれていることは嬉しいことやし、こうして今も先生、先生と言ってもらえることは幸せなことだと思うわ。同窓会でも送り迎えしてくれているし、今日もテレビに出させてもらったし、また送り迎えをしてくれているしな。一年間の担任だっただけなのに嬉しいことやわ。おおきにな。

担任の先生とこんな会話を交わせられることが、僕にとっても幸せなことです。