「今までは別の県会議員を応援していたけれど、もう応援は止めています」という話を伺いました。理由は簡単で、いるだけで存在している理由がないからというのが一つ。もうひとつが、将来性がないので応援しても将来の地域発展のために役立たないからだというものでした。
納得させられるものです。存在している理由がなければ、その場所に存在することはできません。そこに存在すべき理由がなければ、役割のある別のステージに移動する方が全体の調和が図れます。
将来性がないのは、期待感がなくなっているのが理由です。その場所に留まっているだけでは期待感がないのです。新人の野球選手がルーキーイヤーに勝ち投手として10勝の成績を残すとすると、二年目は10勝以上、例えば15勝の期待感を抱かせてくれます。ファンは若い投手に応援するチームのエースになれると期待するのです。
ところが20年目のベテラン投手が10勝の勝ち星を挙げたとしても、次のシーズンで20勝してくれるとファンは期待することはないと思います。来年は10勝することは難しいので若手の台頭を期待するような心理になると思います。このことはベテランを貶しているものではなくて、チームが将来も勝ち続けることを希望するには、若い投手に期待をするのは当たり前のことだからです。
議員も同じで、今まで存在していて実績が分からない人に対して、次の期は期待できるからとは思えないのです。応援している人も年齢を重ねていきますから、自分の世代よりも年齢が下の世代の将来のことを考えるようになります。そうした時に、会社を定年退職した自分よりも年上の議員に、将来の和歌山県を託すことがベストの選択だとは思わないのです。
子どもや孫の世代の和歌山県が輝いている県にしたいと思うと、将来性のある議員に県政を期待する向きがでてくるのです。
期待感は将来を託すための、とても大きな要素なのです。「いつまでも同じ人が県議会議員を務めていても良い時代ではなくなっています」と話してくれたように、時代に応じて、そして次の時代も背負ってくれる人の登場が望まれています。
「和歌山県は大丈夫ですか」と不安な目で訴えてくれました。「早く飛び出して欲しい」 という期待を受けたことに感謝しています。
このままでいれば良いと思うことと、ここからスタートであると思うのとでは到達地点は全く違います。このままで良いという選択をすれば、良くて今の状態です。ここからがスタートだという選択をすれば、将来は今よりも良くなります。何故なら、その選択をした人がいるからです。良くなるという選択、つまり意思を持った人の行動は、水面を渡る静かな波のように選択された人の心に届きます。選択された人が本物であれば、その意思を受け取って、行動に移し変えてくれるのです。