647.嶋清一投手
 海草中学校出身の嶋清一投手が平成20年夏に野球殿堂入りしました。第二次世界大戦で24歳の時に散った嶋投手が、平成の時代になって野球殿堂入りしたことは時代を超えた素晴らしい快挙です。そして嶋投手を知らない郷土の人がお祝いに駆けつけたくなる記念式典が挙行されました。海草中学校は現在の向陽高校ですから、私の高校の大先輩に当たります。確か当時校長室に、嶋清一投手を擁して夏の甲子園大会で全国制覇した時の写真の額が飾られていた記憶があります。

 殿堂入り記念式典では嶋投手の実績が紹介されました。夏の甲子園の初戦から決勝戦までの5試合を全て完封勝利、その内準決勝と決勝はノーヒットノーランを成し遂げたのです。近年になって嶋投手と海草中学校が脚光を浴びたのは、横浜高校の松坂大輔投手が決勝でノーヒットノーランを達成した時、駒沢大学付属苫小牧高校が夏の甲子園で二連覇を達成した時でした。いずれもそれ以前の記録に遡ったところ、嶋投手と海草中学校に辿り着いたのです。

 私達の郷土で素晴らしい記録を残してくれていた先輩が注目を集め、そして関係する皆さんの尽力があって今回の野球殿堂入りにつながったと思います。嶋投手の野球殿堂入りの表彰式は平成20年8月15日、夏の甲子園大会の最中に行われています。終戦記念日に甲子園で表彰式があったのは、平和な時代だからこそ野球ができることを関係者が訴えたかったことと推測できます。スポーツの振興は平和につながることを私達は再認識できる今回の嶋投手の野球殿堂入りです。

 式典では何人かの方の貴重な証言を聞くことが出来ました。
 元近鉄バッファローズの西本幸雄監督は、「日本の野球界で最高の投手。何度か対戦したけれど打てる気がしなかった。球種はストレートとカーブだけだったけれど速かった。その後、嶋投手の再来と言えるのは、火の玉投手と言われた荒巻投手だけでした」。

 海草中学校1年生の時に嶋投手とキャッチボールをして経験のある方は「軽く投げていたので速くはなかったけれど重い球でした。今でもその感触が残っているような気がします。目標を持って練習しろよと声を掛けてくれたことを覚えています」。
 海草中学校で野球部を創設した人のご子息は「嶋投手が戦争で散っていなかったら日本の野球界は変わっていたと思います」。
 嶋投手が戦争で散ったのは昭和20年のことですから、今から63年も前のことになります。伝説の左腕嶋清一投手が今よみがえった事は何かを教えてくれている筈です。
 時を超えて野球殿堂入りした島清一投手。今の平和な時代を、後を託された私達が守るべきだと伝えてくれているような気がしました。
 嶋投手のことを書き記した山本さんは「嶋投手のことを誰かが話して伝えないと、誰かが記録として残さないと、その功績は消えてしまいます。郷土の誇る嶋投手のことを伝えることが私達の世代の責任だと思います」と話してくれました。
 嶋清一投手の野球殿堂入りを記念したレリーフは、海草・向陽記念館の玄関に設置されることになっています。伝説の左腕が平和を祈って、いつまでも私達を見守ってくれるような気がします。

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