現代社会では権利意識の高まりがあり、自己の権利を主張する余り他人を侵害しても平気な人が現れています。個人の権利は万能ではなく制約を受けるのは憲法上からも当然のことです。
権利について考えさせられる事例があります。ある駐車場経営者は、常に駐車場の草刈をしています。その理由は、駐車場に草が茂っていると借主の車に傷がつくことがあり、貸主である駐車場経営者に損害賠償を求めてくるからです。
以前なら借主はその場所を借りているのだから管理責任は自分にあると考え、自主的に草刈をしてくれたそうです。借りた人は自分が占拠している場所をきれいに管理するのが当然だと思っていたのです。法的な解釈は別にして、社会通念上、貸主であっても借主であっても気づいた人が草刈をするなどきれいに手入れをしたら良いのです。
経営者が管理するのは当然かも知れませんが、借主は草が茂っていて車を傷つけると感じたのであれば、貸主に文句を言うのではなく自分で刈り取れば良いのです。
気づいた人が行動するのは社会人として当然の行為ですが、それが出来ていないのが現代社会です。自分のものではないものに対して、お金をかけたり自分の時間を費やすのは損だと考える人が増えています。お金を支払っているから何かしてもらって当然だと考えるのは誤りです。
自分にないものを借りているのですから大切に使用するのが当たり前です。借りた限りはきれいに使用して、契約期間が終了する時は元の状態に戻して返すのが通常ですが、そう認識されていない場合が多くなっています。
公共のものに自分のお金と時間を費やすのは損、或いは馬鹿らしいと考える人がいると公共は乱れてきます。きたない公的な公園、汚れた公共トイレ、コンビニのゴミ箱、公共の喫煙場所などが代表的です。場所が汚れるのは人の心が汚れていることを表しています。
人の心が乱れているから公共の場所も汚されているとも言えます。人の心が乱れているのは社会の性であり、社会が乱れているのは人の心が乱れているからです。
つまり社会と人の心が乱れていることが公共のものが汚される原因です。心の乱れと社会の乱れを正すことで個人と会社組織以外の公共部分がきれいになります。公共部分がきれいになると住みやすい社会になります。
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