コラム
コラム
2021/8/11
1822    シベリア抑留の話

昭和25年8月9日、第二次大戦の最中、満州国にいたM氏はソ連軍の侵攻にあった。ソ連とは日ソ不可侵条約を締結していたこともあり、「突然の侵攻に驚いた」という感想を聞くことが出来た。その日はソ連軍が北緯50度を南下して南樺太に侵攻した時と同じ日だった。

満州国を占拠されて降伏した日本軍はシベリアに連行、抑留された歴史は日本人が知るところである。しかし捕虜となった方から事実を聞いたのは初めてで、改めて戦争について考える契機となった。

ある時、M氏は和歌山県から「満州での話を聞かせて欲しい」と依頼があり、県で歴史の証言を行っているので「記録が残っている」ということである。

シベリアに連行されたM氏は、それから4年間、抑留生活を過ごすことになる。日中は木々の伐採や土地の開墾、そしてシベリア鉄道の敷設作業に従事したようである。 作業を終えて宿舎に戻ると夕食が支給されたようだが、パン一切れを25人で分けて食べるという毎日が続いたと言う。小指程度のパンを食べただけで就寝、翌日はまた作業が待っている毎日だった。人は飢えてくると争いに発展するそうである。パンの大きさは勿論のこと、パンを切って零れたパンの粉も均等に分ける必要があり、均等でなければ喧嘩になったのである。

食料の支給もその程度であり、飲み物も少ない量の水が与えられただけでのどの渇きとの戦いもあったようである。

そしてシベリアの寒さは体験したことのないもので、着衣していた軍服だけが衣服だったので、「宿舎では冬の寒さに凍えた」そうで、「よく生き永らえましたね」と尋ねると「一年目の冬は参りました。しかし不思議なものでその次の冬からは慣れていくのです。もちろん、薪を焚いていたので多少の暖かさはありましたが」ということである。

抑留生活の4年間は監視があるので、逆らうことができない作業と飢えの毎日が続いたのである。逆らうと殴る蹴るが待っているので、ただ耐える日々だったのである。そして4年後、引き上げ船で祖国に戻ることができたのだが、帰国できない隊員もいたのである。
「恐らくですが、監視している中で優秀な日本人がシベリアに残されたと思います。残留を余儀なくされた日本兵は、ソ連軍から撤退的に共産思想教育を受けたと聞いています。反論することは許されず、教育と言う洗脳を受けることになったのです。数年後に帰国した彼らの思想は共産思考になっていたと思うので、その後、この国に共産的な思考が浸透していったと思います」と話してくれました。

寒冷地での過酷な作業、少ない食料と水、そして徹底した教育によって、強固な意志を持った日本人でさえ洗脳されていったのである。

M氏はもう90歳を超えているように、令和の時代においてシベリアで抑留された経験の人の話を聞ける時間は少なくなっている。現在、戦争体験を聞く機会はほとんどなくなり、満州国での出来事も、南樺太での出来事も新たな記憶も記録も残されない状況にある。

この話は「映画『氷雪の門』を鑑賞する機会を持ちたい」と話していたことから、満州国の記憶の話になったもので、「氷雪の門」の話がなければ聞くことができなかった歴史の話である。知り得た歴史を語ることは、新たな歴史を蘇らせる作用があるので、是非とも歴史を学び、人に話したいものである。