チェコの作家カレル・チャペック氏の言葉を知りました。以下の言葉です。
「誰かが溺れているときに、『誰かが水に飛び込んで彼を救うべきである』という理性的意見だけでは足りません。歴史は『誰かが何かをなすべきである』と提案する人よりも、むしろ『何かをしている人』を必要としているのです」の言葉です。
歴史を築いてきた人がどんな人なのかを端的に表しています。理論を述べる評論家ではなく、理屈よりも動いている人が歴史を築いてきたのです。歴史を築くとは、その時々の社会を築いてきたことであり、結局、評論するだけの人は、社会の中核を担うことが出来なかったということです。これは現代にも通用する評価であり「何かをしている人」でありたいと思うのです。
歴史は評論したことが残っているのではなくて、常に人が行動してきた結果や言葉が残っています。現代においては評論することはどの時代よりも簡単になっています。インターネット、SNSでの発信により、誰でも評論することが簡単になっています。それは良いことですが、誰かが何かをした結果を元に評論するだけでは、何の結果も価値も生まれません。言葉は行動と共にあるべきですし、行動の伴わない言葉は人に感動を与えることはありませんし、結果を導くこともありません。
しかし行動を起こして結果を出すまでには時間を要します。行動から結果までの時間の間に評論する人は批評をするのですが、これが実に厄介な存在となります。小さな批評であっても、それは何かをする人にとって行動を止めてしまいかねない毒になるからです。透明できれいな水で満たされている水槽の中に一滴の毒が混入されると、その水は飲めなくなってしまうように、批判の言葉は結果を出したかもしれない人の心と行動を止めてしまうことにつながるのです。何も行動を起こさない人は、せめて「何かをしている人」の心に毒を偲ばせないようにして欲しいと思います。結果を導くための行動は毎日の小さな行動の積み重ねであり、決して一日にして成し遂げられるものではないからです。
「誰かが何かをなすべきである」と言う人の批評によって「何かをしている人」の一日の行動を止めてしまうことは、導こうとしている結果に影響を与えてしまうのです。
もちろん「何かをしている人」は批評によって行動を止めることはしませんが、人は心ですから、少なからず影響を受けてしまうのです。自分の小さな経験から言えることは「1の批判を打ち消すためには100の励ましの言葉が必要」だということです。
たった一つの批判の言葉に心を痛めます。気持ちが迷います。行動にブレーキがかかります。そして自信を喪失させてしまいます。
もしかしたら「誰かが水に飛び込んで彼を救うべきである」と評論している間に、溺れている人は助からないかもしれません。評論している間に飛び込んでいれば、その人は助かっていたかもしれませんが、飛び込まなかったために、取り戻せない結果が生じてしまったかもしれないのです。歴史に「もしあの時」はありません。結果が出てしまったことは、元に戻って取り戻せないのです。
令和の時代を生きる私達は「何かをしている人」を目指すことを目標としたいと思います。
そう、私達は現代社会を生き、歴史を築いている真っただ中にいるのですから。