コラム
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2018/11/16
1728    母との時間

まえがき

平成30年11月10日、土曜日未明。最愛の母が亡くなりました。絶対的理解者の母がこの世にいなくなったことは信じられない気持ちでいっぱいです。別れの日はいつか訪れるものですが、こんなに突然、訪れることになるなんて思ってもいませんでした。母との思い出は限りなくありますが、平成30年3月頃、母が体調を崩した時、頻繁に実家に立ち寄っていました。その時のことを書いて残していたのですが、元気な母でいて欲しいので掲載することを見合わせていました。

寂しさがこみあげてくる母がいない11月。母との思い出を永遠にしたいと思い、コラム欄に掲載することにしました。

母との時間は大切なモノだと気付かされました。平成30年3月11日の夕食を実家でいただきました。突然のことなので「何も食べるものはないよ」と言いながら、鰻を乗せてくれたご飯とおうどんを作ってくれたのでいただきました。

夕食後にはいつもと同じマグカップにコーヒーをいれてくれたので食後のコーヒーを飲みました。

コーヒーを飲みながらコタツに入って話をしていると、「子どもと一緒にいられる時間も残り少なくなっています」とポツリと話してくれました。

それは次のような理由からです。

子どもがここに来てくれる時間が一日のうち2時間だとします。しかし僕が「忙しいから」ということで「一年に何度も来ることはできないと思う」ということです。仮に一か月に一度、一日、2時間、実家に行くことが出来るとして、12か月に2時間を乗じると24時間となります。つまり一年間で会うことのできる時間は24時間、つまり一日だけということになります。母と子どもが一緒にいられる時間は一年間でたったの一日だということです。

余りの短さに驚く数字ですが、客観的には一年間で会えるのはこれぐらいの時間だけとなっています。「少な過ぎる」と寂しく思います。

だから、もっと、もっと実家に来るようにしたいと思いますし、もっと会える時間を取りたいと思います。

小学生低学年の頃、ミシンの内職をしていた母が「ミシンを縫いに出ようかしら」と話してくれたことを思い出しました。内職でミシンを縫うよりも工場で働く方が、賃金が良かったからです。しかし僕は「嫌だ」と言ったことから、母は引き続いて家で内職をしてくれました。小学校から帰って来た時、母がいない寂しさを思うだけで「寂しい」と感じたからです。

それ以降も母は家でミシンの内職を続けましたが、二度と働きに出るということはありませんでした。子どもを自分よりも大事に想う気持ちを、今更ながら思い涙が出てきます。家計を楽にすることや、気晴らしで外にも出たいと思っていたかも知れませんが、僕の意見を何よりも優先してくれたのです。

あの頃は母と一緒にいることが当たり前過ぎる程当たり前のことで、一日24時間、今日も明日も一緒にいることが自然な日常でした。朝、小学校に行く時「行ってきます」と元気に声を出すと母は玄関先に出て「いってらっしゃい」と声を掛けてくれて見えなくなるまで見送ってくれました。

小学校から帰って来た時、「ただいま」とミシンの音が外まで聞こえている家に入ると、「お帰りなさい」と迎えてくれました。その時、ミシンの鳴る音が消えるのです。夏であればカルピスを作ってくれて、冬であれば温かい飲み物を入れてくれ、そして再びミシンの音が聞こえ始めるのです。勿論、カルピスは原液を水道水で薄めて作ってくれたものを飲むのですが、濃い味だったり薄い味だったりして、とてもおいしいのです。

そんな昔のことを思い出しました。平成30年5月になれば母も「もう83歳」になります。母といられる時間は限られてきていることを実感しました。「時間よ、止まれ」です。