コラム
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2018/11/19
1729    小学生の時の記憶

小学生の時、母はミシンの内職をしていました。家にミシンを置いて運ばれてきた裁断している布を縫い合わせる作業をするのです。山のように積まれた布の中に入ったり、不思議そうに眺めたりしていました。ミシンの音は夕食の時間まで絶えることなく鳴り響き、その音が聞こえていると安心できたように思います。

小学校から帰って来た時にミシンの音が家の外まで聞こえていたことも、「今日も家で母が僕の帰りを待ってくれている」と思い安心感がありました。それが小学校の時の日常でした。ミシンで一枚縫っても「○円○銭(金額は忘れてしまいました。が、安い金額だったから、どれだけたくさん仕上げても10万円にも満たなかったように思います)」と答えてくれたと思います。

それでも内職で家計を助けていたと思いますし、それがなければ経済的に余裕はなかったと思います。昭和40年代は、その多くはまだまだ貧しい時代だったとセピア色の記憶が語ってくれます。

ミシンの音が鳴り止むのは午後5時ぐらい。母が夕食の準備を始める頃です。ミシンの音に代わってまな板に包丁で食材を「トントン」している音が聞こえ始めるのです。小学校低学年の時の門限らしき時間は午後5時でしたから、あの頃は5時頃になると「もう帰る時間だから」と思っていたものでした。何故かあの頃の夕方の空は夕焼けだった記憶があります。学校から帰ると家にランドセルを置いて遊びに出掛けます。遊んだ後に自転車で帰る途中、目の前に夕焼けが広がっているのです。夕焼けに向かって自転車で走る。いつもそんな光景だったように思います。

だからあの頃の夕食は7時頃から始めていたように思います。7時頃から食べ始めて8時頃には食べ終えていました。今思うと、小学生の時の時間は短かったのですが、小さい時代というその時だけ感じることのできる長い時間の旅をしていたような記憶として残っています。今、あの時のような気持ちになることや、あのような時間の使い方は出来ないと思いますから、思い出というものは素敵な宝物だと思います。毎日訪れていた日常が、そのまま宝物になっているなんて、とても素敵なことです。

学年があがるに連れて、小遣いは30円から50円、100円へと上がっていきました。でもあの頃は30円でも、駄菓子屋さんに行くと、それなりのお菓子を買うことが出来ましたから、「少ない」と思ったことはありませんでした。

遠足に持って行けるお菓子の予算も300円ぐらいでしたから、当時の100円硬貨は高価なコインでした。遠足が近づいてくると300円を持って登場したばかりのスーパーに行ってお菓子売り場に行く。300円以内になるようにお菓子を選ぶことがとても楽しかった。高度成長を遂げていた昭和40年代の小学生はそんな子どもだった時代でした。

さて母が内職を辞めたのは僕が高校生の頃だったのでしょうか。衣料品の製造が国内からアジアの国へと拠点が移り、内職の需要が減少していった頃です。内職の賃金もあがるどころか下がる傾向にあり、また仕事量が減少していった記憶があります。ミシンの横に積まれていた縫う前の布の量が、段々と減少していったことも覚えています。時代は変わりつつある。そんな記憶が残っています。母も時代が変わろうとしている時間を生きていたのです。