コラム
コラム
2014/9/12
1529    命のバトン

生と死を考える機会は日常生活においてそれほど多くはありません。それは死ぬということが遠くなっているからです。現代の社会において自宅で死ぬことができる人は約10パーセントで、約90パーセントの人が病院で死を迎えています。家族からも地域からも遠い存在になっているのです。現役で働いている時は死ぬことを考えることはありませんが、死ぬことを知らずして生きる価値を知ることはできません。

生きることの意味は人によって違う価値観があると思いますが、次のようなことも価値観になると思います。

  • 命は限りあるものであることを意識して今を懸命に生きること。
  • 命とは時間のことであり、与えられた時間こそ命の長さであること。
  • 生きているということが素晴らしいこと。

もっとあると思いますが、限りあるもの、時間が命の長さであること、そして生きている今が素晴らしいこと。これらを意識するだけでも生きることの幸せを感じることができます。

やがて死を迎えるのですが、癌になって死を意識した人の話を聞かせてもらいました。自分が死ぬとは誰も思っていません。しかし死を宣告された直後に見る世界は、死を意識していなかった時とは違うものだそうです。病院で死を宣告されて外出した時に見た光景。それは、往来する人、走っている自動車、建築物、飛んでいる鳥、道路に建っている電柱など今までと同じものだったのですが、その全てが輝いて見えたというのです。死を意識した時に輝いて見える世界が、私達が生きている世界なのです。私達は死を意識していないので、自分が生きているこの世界が輝いていることに気付かないのです。

この世界には透き通った風が吹き、上を見上げると青い空があります。セミの鳴き声や雑踏などにも命の輝きは存在しているのですが、透き通っているため意識しなければ見えないのです。私達は全てが輝いている世界に生きています。その輝きに気付かないで生きることに意味がないと思うことは寂しいことです。輝く世界で生きていること自体に意味があるのです。

挨拶ができること、会話を交わすことができること。こんなことが生きている意味なのです。何故なら、死んでしまうと挨拶も会話もできないのです。何かを見ることも、誰かと会話することもできなければ大切な思い出が作れないのです。もし大切な人が死んでしまったとしたら、今まで当たり前のようだった挨拶も、当たり前だった会話もすることはできないのです。死んだ途端に新しい思い出は作れなくなります。どうでしょうか。生きていることに価値があることを知ってもらえると思います。

生老病死と言われます。この中で生きていることだけに価値があり、老化、病気、そして死ぬことには価値がないという風習が現代社会を支配しています。しかし生きている限り、老化と病気は避けられないものですし、その行き着く先は死ですから、老病死も生きていることであり、同じように価値あるものだと思いたいものです。生老病死の全ての場面で安心できることが幸せなことです。不安、恐怖は幸せを感じさせなくする作用があります。生きることは老病死も含めてのことです。人が死ぬということは悲しいことですが、悲しむことが命のバトンを受け取ることなのです。命のバトンをいつか受け取る時が訪れます。そして自分も命のバトンを渡す時がきます。生きていることは命のバトンをつなげることです。