和歌山県の食材を使っておもてなしをしてくれる飲食店があります。一流の新鮮な食材を調理して提供してくれています。調理人としてお店に出てから50年が経過していることを聞きました。最初は大阪市内のお店に住み込みで修行し、その後大阪市内のお店で勤め、その後、和歌山市に戻って現在のお店を経営しています。50年も職人として生きてきた人の話を聞く機会は滅多にないので、テーマをおもてなしに絞って聞かせてもらいました。
お客さんと向き合って作ることでお客さんの望む料理を出せますし、お客さんの食べている顔を見ることで好みが分かり、次の料理を提供できます。大きな厨房にこもってしまい、お客さんの顔を見ないで料理をしていると、満足感も分からないし、喜びの表情も見ることができません。それだと単にメニューにあるものを、注文を受けて機械的に提供しているだけなので心のこもった料理にはなりません。
私がカウンター内で料理をしているのは、お客さんの顔を見ることができるからです。お客さんが料理を口に入れたときの表情などを見て、好みを把握し、次の料理を出すようにしています。美味しいと思ってくれたか、好みではなかったかは食した後の表情で分かります。
料理人はお客さんの満足のために料理をしています。お客さんの顔を見ないで料理しているようでは職人にはなれません。お得意さん一人ひとりの好みは把握していますし、次の来る時には同じ内容のものを出さないように工夫しています。毎日、来てくれたお客さんと提供したメニューをノートに記録しています。これまでも記録しているのでもう何十冊も保管していますが、予約が入った時はそれを見て、毎回、違うメニューや特にお気に入りのメニューを出すようにしています。修行をさせていただいた師匠のことを今でも尊敬しています。今あるのは育ててくれた師匠がいたからです。自分の師匠を尊敬できない人はたいした人ではありません。私の修行時代は住み込みでしたから辛いことがありましたし、給料も貰えませんでした。働いているのに給料を貰えないので不満に思うこともありましたが、学ばせてもらっているのだから自分はまだ月謝を払う身分であることを知り修行しました。
きっと師匠は弟子なんかいらなかったと思います。最初は戦力になりませんし、育てることはコストも必要で大変なことだからです。そんな自分を育ててくれて職人の道を切り開いてくれたことに感謝しています。
職人の中には一流になったと錯覚をして、かつての師匠を貶す人がいますが、そんな人は自らの人格を落としています。今の自分があるのは誰のお陰なのかを知ることで、職人としての誇りと自ら成長過程にある存在であることが分かるのです。