コラム
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2012/5/2
1029    時間は有限

「読んでビビッときたから」と言って、そのビビッときた言葉を伝えてくれました。

「時間は特異な資源である。主要な資源のうち、資金は豊富にある。人材も雇うことができる。ところが時間は、借りたり、雇ったり、買ったりして増やす事ができない。時間の供給は硬直的である。需要があっても供給は増えない。簡単に消滅して蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。こうして時間は常に不足する。最近、時を凄く意識します」。というものです。

時間は有限ですが有限であることを意識していません。それは海のようなものだからです。海の水はどれだけあるのか分からないので、どれだけ汲み出せばなくなるのかなど意識することはありません。ところが喉が渇いた夏の日、コップにある水の量は意識します。必要なのにそれが少なければ、少ないと感じ有限であることに気付きます。少なければ、数に限りがあれば有限なものが貴重なものであることが分かるのです。ところが大量にあるもの、今直ぐになくならないと思っているものは、有限性に気付き難く、貴重なものであるという認識が持てないのです。時間は正にそんなものです。

自分がどれだけの時間を持っているのか分かりませんし、いつ無くなるのかも分かりません。感覚的には時間は無限にあるもので、自分が持っている時間は永遠に存在するものだと思っています。使っても、使っても無くならないもの。そして辛くても一日は必ず終わり、新しい朝が訪れることを知っているので、自分には確実に朝が訪れると思っているのです。

いつか時間は有限だと思い始める時がきます。年齢を重ねて残りの時間が少なくなっていることを思うことがあります。時間は有限であり、いつか新しい朝か訪れない日が来ることを思うのです。若い時、感覚的には時間は無限です。年齢を重ねると、恐らく人生の折り返し地点を過ぎた辺りで、時間は有限であることに気付くのです。

それでも尚、時間の有限性に気付いても、貴重なもの、大切なものだという感覚は乏しく、今の瞬間が貴重な時間であることを意識していません。そして時間と同じような感覚のものがあります。健康、生命、友人などです。いずれもある時は大切なものだと思っていないのですが、健康を害した時。自分の身体に癌の発生を知り、生命の危機を感じた時。友人が去って行った時などに初めて、それらが大切なものであり有限性のあるものだと気付くのです。

健康が失われた時から健康に気をつけても遅いのです。生命の危機に直面した時に、食生活や生活習慣を改めようと気をつけても遅い場合があります。友人が去った後にそれを取り戻そうとしても難しいのです。時間が過ぎ去った後にそれが大切なものだと分かっても、過ぎた時間は取り戻せないのです。大量にあり過ぎるので貴重なものだと思っていないのが時間です。時間は無限かも知れませんが、自分に与えられた時間は有限なのです。買えない、貰えない、溜められない時間が生きている間だけ私たちに与えられています。時間が与えられているのは生きている間だけなのです。