「期待を感じる一票を投じたい」。そんな意見をいただきました。
その前段は「今までの選挙で、この人に期待しているから一票を入れたことはありません。残念なことです」というものです。ですから、もうそろそろ「期待を感じて一票を投じたい」という意見です。
和歌山県に住んでいる人なら、その感覚は良く分かると思います。選択肢のない選挙に慣れてしまい「仕方のない一票」を投じていることはないでしょうか。
「期待を感じる一票」と「仕方ない一票」では重みが違います。何と言っても重みが違います。高いところから与えられた候補者と特定政党の候補者の一騎打ちでは、気が抜けるのは無理のないことです。
もうそんな状況は止めにしようと呼び掛けてくれました。
2009年夏の総選挙のように、選択肢のある投票にはワクワクする期待感が感じられます。今までは期待感の感じることのない投票だったことが分かります。つまり権力者から候補者を提示された選択肢のない投票だったのです。ここには期待感は存在していません。
政権交代の選挙で、一度ワクワク感を持った人は、この次もワクワク感のある人を選択する筈です。しがらみが消えたら、期待感のある人を選択するのは当然のことだからです。
ワクワクするかしないか。選択に関しては、意外と大きな判断要素なのです。
ところで期待感を込めて投票するのはどんな時なのでしょうか。消去法で候補者を選択する場合は、そんな気持ちになりません。この人に期待していると思うことが、期待感のある投票となるのです。本来は、多くの人が出て欲しいと思えるような人が候補者になるべきなのです。
消去法ではなく積極的支持をしたい。平成の時代はそう思える人の登場を待っています。
ところで「期待を感じる一票を投じたい」と投げかけられた気持ちには高揚感がありました。期待する人は誰でも良い訳ではないので、認められた人であることが条件です。
時は突然訪れます。それが時代の要請かどうか、瞬時に判断する能力が必要です。何かを成すためには勘と運が絶対に必要です。
例えですが二カ国間の戦争において、相手軍に機関銃を打ちまくられて現地の100人が死亡したとします。ところがたった一人だけ生き残ったとします。生き残ったのには条件があるのでしょうか。生き残りの方程式も法則もありませんから、分析しても条件はでてきません。一人が生き残ったのは、その人に運があったからなのです。
運とはそんなものです。自分でコントロールするものではなくて、天が采配してくれるものなのです。運に身を任せることは勇気がいりますが、自分の運を信じることで道は開けます。生き残るためには運が必要なのです。