和歌山県広川町にある「稲むらの火の館」の見学に行ってきました。この施設を見るのは初めてでしたが、防災よりも大きな理念を感じ取ることができました。「稲むらの火の館」の場所は浜口梧陵の自宅となっています。自宅が「浜口梧陵記念館」となり、自宅の庭が「稲むらの火の館」となっています。
浜口梧陵についての功績は各種資料に掲載されているので記載することは避けます。ここで記載しておきたいことは、晩年は優れた人物を見出しその人物に投資する今で言うスポンサーであったことです。スポンサーになった人物は、驚いたことに勝海舟だったのです。幕末の巨人勝海舟を次の日本を背負う人物だと見定め、投資して育てていきます。人を育てるために耐久高校の前身を設立したのも浜口梧陵なのです。耐久高校は現在もこの地域を代表する名門校として光を放っています。
1854年、安政の地震による津波から広村を救った人物との認識でしたが、それだけでは語れない大きな人物だったのです。和歌山県議会初代議長であり、ヤマサ醤油の事業を手掛ける実業家でもあり、優れた才能を見出して投資し、人材育成のために教育機関を設立した人でもありました。
そして防災に関しては稲むらの火が有名なため、他の実績が語られていないのですが、その後の対応も素晴らしいのです。100年後に再び広村を襲ってくると考え防潮堤防を建設しているのです。私財を投じて、安政の津波から三か月後に防潮堤防の建設を始めたのです。この建設事業は津波で仕事を失った地元の人を雇用する目的を含んでいました。仕事をなくし津波の危険性のある広村ですから、何とか立て直さない故郷を後にする人が出てくることも考えられていたのです。つまり防潮堤防とは、防災対策と雇用確保を目指した事業だったのです。1854年当時、ニューディール政策と同じような発想をしていたことに驚きます。
浜口梧陵が築いた堤防は長さ650m、高さは海面から5mもあります。現在もこの堤防を見ることが出来ますが、その大きさに接すると偉大さが実感できます。四年の年月を掛けてこの堤防が完成していますし、後にこの堤防が90年後に発生した昭和南海地震による津波から広川町を救ってくれたのです。将来必要な仕事を前倒しで実施した先見性のある堤防建設だったのです。
この広村堤防は今も広川町を守ってくれています。後世に残る事業とはこのことです。そして生命を守るためには即座に必要な対応することや必要なお金を投資することなど、防災の教訓を今も私達に伝え続けてくれています。
仕事を通じてだけではなく、仕事以外でも社会のために尽くすことが浜口家の教えだったようです。その精神が故郷を救い、自らを高めていった大きな要因かも知れません。
もうひとつ特筆すべきことを発見しました。浜口梧陵の書斎を見た時のことです。氏は勉強家で蔵書は相当量あり、全て展示することはできない程だそうです。展示されているだけでも日本書紀や古事記などがあり、将来、活躍する土壌を作ったのは読書によるものだったことが伺い知れます。天才的な人物は稀で、功を成し遂げた人物は例外なく若い頃から人並み以上の勉強を続けています。勉強をしている人だけが社会で何かを成し遂げるのです。実業家としても政治家としても、そして人を育てる投資家としても成功している浜口梧陵も例外ではありませんでした。
勉強を続けることの大切さも感じ取れました。
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