高校の同級生の関君の命日。お墓を訪れた時に言葉に出会いました。
「この日、この時、この場所が私のすべて」。
私達は、いつまでも生きていられると思っていますし、いつでも好きな場所に飛んで行ける、もっと言えば、同時にふたつ以上のことを行えると思っています。今はお墓参りをしているけれど、同時に仕事のことを考えたりしながら並行した人生を歩めるような気がしているのです。
しかしこの日のこの時間は、今のこの場所で存在するだけなのです。それ以外の場所で存在することはありません。関君の命日。同級生達とお墓参りに訪れましたが、もし今日私がこの場所にいなければ同級生と同じ思いは共有できなかったのです。例え、後で今日の日の出来事を聞いたとしても、その日時は別の場所で何かをしていたのですから、話の中で自分がその場所にいたように感じても、そこには存在していなかったのです。
毎年巡ってくるカレンダーの一日。同じ日時を生きられるように思っていますが、一年前と同じ日ではありませんし、来年のこの日は今日と同じではありません。同じ時間が巡ってくるように錯覚しているだけですし、その錯覚が今年も来年も続くだけです。
人は時間と場所から離れることはできません。その二つが定まると、そこ以外に存在し得ないのです。例えば墓参りと会議、ふたつの用事が重なったとします。その内、お墓参りに行くことに決めた場合、必然的にもうひとつの選択肢は消えて無くなります。その選択肢は永遠に表れることはないのです。明日、会議の選択肢を実行したとしても、今日の会議とは全く違った時間と場所を生きているのです。
時間と場所の概念を持ち合わせると、今の自分の存在がどれだけ価値のあるものか判ります。人は時間の縦軸と場所の横軸の交点にだけ存在するのです。時間と場所を越えて自由に行きかえる能力は、残念ながら持ち合わすことはできないのです。ですから人は今の日時と場所だけに存在することを分かった生き方をすべきなのです。
「準備を整えて来年になったらやろう」、「次の機会が訪れたら考えよう」、「定年になってから次の人生の生き方を考えよう」というような、自分が永遠に生きられると思っている人のような考え方を持つべきではないのです。今を生きていることを知っている私達であるならば、です。
いま日時の行動は、明日の自分の行動の基礎になります。いまを怠けている人は明日も怠けることは間違いありません。いまを真剣に生きている人は、明日も真剣に生きています。人生は時間と場所から飛び立つことはできませんし、自分の考えている通りの出来事の繰り返しなのです。
いまの今日の時間を和歌山市にいて、ラスベガスのカジノで勝つことは絶対にありません。ある日の午後、ラスベガスのカジノにいるのに、和歌山市で行われる食事会に参加できることはありません。「この日、この時、この場所が私のすべて」なのです。
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