この世から旅立った田村誠さんの通夜式が執り行われたので、参列させていただきました。47歳の旅立ちに際してお別れにたくさんの方が訪れていました。
偶然ですが、自宅療養を続けていた田村さんのお世話をしていたのが親戚のNさんだったのです。田村さんについて話し合ったところ、「本当に頑張っていたよ」とのことでした。希望を失わないで、懸命に病気と闘っていたことを知りました。Nさんは続けてくれました。「いつも片桐さんのことを私に話してくれていました。同期で入った片桐さんのことを自分の誇りとして嬉しそうに話していました。そして片桐さんの活動を自分の闘いの励みにしていたようですよ」。勿論、田村さんはNさんが私と親戚だとは知りませんでした。今も知らないと思います。
そんな田村さんの気持ちを知って涙ものでした。その気持ちにどれだけ応えられているのだろうか。癌と最後まで闘った田村さんと比べて、私は今日を生きているのだろうか、と自問自答することになりました。
また兵庫県の病院に入院していた時にお見舞いに訪れたSさんと話したところ、「田村さんは、治療の初期対応を誤ったことを後悔してワンワン泣いていました」と初めて聞く話がありました。
土地家屋調査士として独立した後、順調に売り上げを伸ばしていたのですが、それが途中で止まってしまいました。当初の目標を前倒しで達成する勢いでしたから、生前話していた「残念で仕方ない」気持ちは分かります。そして「仕事ができることは素晴らしいこと」だとの思いを噛みしめています。月曜日の仕事に向かう時は「もう少し休みたいと」思うものですが、仕事ができることは、それだけで生きている価値のあるものなのです。
仕事が辛いだとか、休みたいだとの思いは、今直ぐに心の中から追い出さなければなりません。毎日仕事があることが幸せなことだったのです。
桃源郷の例えから観光についての話があります。桃源郷に行きたいと思うのは、そこが幸せな場所だからです。人は幸せな場所を訪れたいと思うものです。ですから桃源郷は作られたものではなく、人が幸せに生活している場所なのです。
観光政策が間違っているのは、人に来てもらうための施設や人工の建造物を作ろうとしていることです。人が来て幸せを感じてもらうことも意味があるものですが、幸せな人が暮らしている場所を訪れることが本来の観光だそうです。
住んでいる人が幸せでいられることが、住んで幸せであり桃源郷のような観光地になり得るのです。
同じように、仕事がある毎日を過ごしている人が幸せに思うことは誤りなのです。桃源郷は捜して見つかるものではなくて、日々の生活の中で見つけるものなのです。
生命が限りあるものだと気付いた田村さんは、毎日の変わらない生活こそが桃源郷であることを知ったと思います。寝込んだ時の田村さんの言葉、「仕事がしたいなぁ」の言葉が脳裏に残ります。
もう一度元気になって「飲みに行こう」の約束は果たせませんでした。飲みに行く位の日常では簡単なことが叶わなかったのが残念です。飲みに行くことも桃源郷のひとつなのかも知れません。
明日、最後のお別れにここに来ます。最後にあなたと話し合えることを楽しみにしています。
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