宮内庁歌会始委員会参与の中島宝城さんが和歌山市に来てくれました。早くから手帳に予定を書き込んでいましたが、その日が訪れました。言うまでもなく中島参与は、昭和天皇の大喪儀、天皇陛下の即位の礼、皇太子殿下の立太子の礼、結婚式などの儀式を担当された方で、直接お話しを伺い懇談の機会を得られたことは喜ばしい限りでした。 |
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懇談の場にいることが出来たのはわずか10名。中島参与の品格と穏やかな空気に触れられた時間は幸せな時間でした。森の中にいるような爽やかな空気がこの部屋に満ちていました。
中島参与は宮中の歌会にも出席されていますし、歌集も出版されています。そのことから歌にまつわるお話を伺いました。
日本人と西洋人の認知機能には差があるそうです。
日本人は言語音以外に、感情音、泣く、笑う、感嘆、ハミング、鳴き声、動物や虫、鳥の声、小川のせせらぎ、波と風、雨の音、邦楽器音などの認識は左脳が司っています。それに対して右脳は西洋楽器音と機械音などを聞き分けます。
西洋人の左脳は言語音を聞きますが、それ以外、日本人が左脳で聴いている音は右脳の役割になっています。
つまり日本人は自然界にある意味のない音も言語音と同じ左脳で聴きますから、自然音にも意味を持たせるのです。和歌や俳句など自然界の出来事を捉えた歌が誕生したのは、日本人の自然の音に意味を感じる特質にあります。西洋人は自然界の音は単なる雑音と捉えるので自然界の音には意味を見出さないのです。
日本人は自然界の音やノイズは美しいと感じ大切にしていますが、西洋人は人間が作り出す音、つまり人工的な音を美しいと感じます。ですから西洋人の歌はリズム、メロディ、ハーモニーに歌詞を乗せていますが、日本人の歌は歌詞が主役で楽器演奏は従であるため、歌の邪魔をしないような控え目な演奏が特徴です。
これは日本人と西洋人のどちらが良いという議論ではなく、あくまでも人種の特性による文化の違いを表しているものです。この民族が持つ特性を生かしたものが文化であり、だからこそ文化を大切にする必要があるのです。文化とは人種の存在そのものなのです。
言葉は5万年前に誕生し、文字は5,000年前に誕生しています。言葉以前にあったのは叫び声であり、叫び声から歌に進化し人は歌うようになったのです。日本人が自然音を美しいと感じているのは5万年前からであり、現代人も変わらない性質と和の文化に適した脳を持っているのです。
そして面白いことに街の音は20kHzより低い音に囲まれています。室内で聴こえる音、テレビの音、トラックが通過している道路の音など、街で聴こえる音は人工的な音で溢れています。一方、森の音は20kHz以上の高い音が存在しています。パナマの熱帯雨林の環境音、ジャワ島の熱帯雨林の環境音、バリ島の祝祭空間の音、モンゴル草原の小川のせせらぎの音などは20kHz以上の音が溢れています。
しかし人が聴くことができる音は20kHz以下の低い音で、それ以上の高い音は聞き取ることができません。しかし聞き取れない高い音も意味を持っているのです。
人が聞き取れる20kHz以下の低い音のことを基音といいます。人工の音や街の音は基音で成り立っています。それに対して20kHz以上の高い音は超音波と呼び、倍音といいます。基音は大きな音ですが、大きな音が遠くまで聞こえるものではありません。遠くまで聞こえる音は小さな波の繰り返しである倍音なのです。
倍音とは自然界の音のことで、その音は聴こえないけれどもα波を出してくれる快適な音なのです。森林の中にいると人が快適と思うのは、そこに秘密があります。
人の声も同じで基音だけでは快適に聴こえないのです。晴れの席で発する言葉や大勢の人に訴える時の言葉は、遠くまで響き渡る倍音の方が効果的なのです。昭和天皇の大臣の認証式に立ち会った経験のある中島参与は「天皇陛下の大切な式典の時の声は倍音でした。認証を受ける大臣も倍音を聞くとピリッとして顔つきが変わっていました」と話してくれました。倍音の声を出せる人は少なくなりました。倍音のことを古代の声とも言いますが、生きるために遠くまで声を行き渡らせる必要のあった古代人は、状況に応じて倍音を使っていたのです。
自然界の音を感じ取る能力を持つ日本人ですが、街の中で暮らし、西洋音楽に慣れている現代、倍音を話せる能力が失われつつあるようです。その自然音を感じ取る能力の低下は日本文化を失わせるのに十分なことです。
しかし文化だけではなく、人工音は規則的、デジタル的なものですから身体への影響もあるといいます。心臓の鼓動を初め人の身体は実は不規則な動きがあり、余りにも規則的なものは身体が受け入れないので不快感を示します。身体が求めるリズムと都会のリズムは合わないので、都会の生活の中では体調を崩すこともあるようです。
音楽用のCDもそうですが音を20kHZでカットしています。レコードは音をカットしていません。聴こえない音域まで記録しておくことは一見、無駄なように思いますが、精神的に良い効果をもたらしてくれます。聴こえないものを聴こえないとして、見えないものを見えないとしてカットするのは効率的かも知れませんが、身体的、精神的には良くありません。風光明媚といいますが、風は音、光は視覚ですから、その場所で何かを感じ取ることが美しいことなのです。画一的に聴こえるものや見えるものだけを実感しても、身体と心は満足しないのです。日本人にとって自然音を感じ取れることが、身体にも心にも良いのです。和の文化を大切にすることが日本人にとって大切なことなのです。