時間は誰にでも同じだけ与えられていますが、時間の中身は使う人によって違いますから、どれだけ充実した時間を過ごすかが大事なことです。好きな仕事や趣味に打ち込むこと、家族と過ごす時間を大切にすること、素晴らしい友人達と交流することなどが時間の中身を充実させてくれます。
今日は和歌山でフラメンコスタジオを開いて普及と地域活性化に努めている前田さんと森さん、そして報恩寺の松本恵昌さんと懇談する貴重な機会に恵まれました。それぞれが大変お忙しい立場の方なので一同にお会いすることは中々適わなかったのですが、日曜日の今日、ようやく実現しました。
改めて前田さんのフラメンコに賭ける情熱をうかがい知ることができました。地方にあっても全国に通用するフラメンコを創出していますし、スペインでも公演できるレベルに高めたいと熱意を秘めています。むしろ秘めていると言うよりも熱風を発しています。
ただ個人だけの活動で熱風を台風に昇華させることは容易ではありませんから、行政機関やマスコミ関係者などの支援を得たいところです。スペインの文化であるフラメンコですが、和歌山県で和洋を融合させ東京に、そして本場スペインに進出を果たし、日本の内に秘めた情熱を伝えたい思いを感じました。祖先に遡ると、西洋と東洋では、肉食と菜食、狩猟民族と農耕民族の違いがあり、同じことでも感じ方は違いますし、フラメンコの表現方法は違うのは当然です。日本人が踊る情熱的なフラメンコ、日本人が伝える和洋混成のフラメンコ。どちらも前田さんが挑戦していることです。良い意味で伝統に挑戦する革新的な取り組みは、一方では逆の評価をされることもあるようです。つまり「本格的なフラメンコはできないからだ」などの心のない言葉です。心のない言葉は、矛先となる人の心に突き刺さります。しかも冷たく深く、です。言葉によって傷つけられると行動にも影響を与えますから、批判の言葉は危険な毒薬のようなものです。
いつの時代も、どんな分野でも批判をすることは簡単です。しかし人生を賭けて挑戦している人に対して、自分は安全な対岸にいて未知の大地に挑戦している冒険者を批判することは許されない行為です。ですから自らが冒険者の立場に立たない限り、決して批判はすべきではないのです。それ以上に、常に正々堂々とした本当の冒険者は、自らの行く先を切り開くことに関心があるだけで、人の批判はしないものです。人の批判に貴重な人生の時間を割く間があるなら、1mmでも前に進もうと考えるものです。冒険者の前田さんは、創作フラメンコの「祈りの道」や「炎の道成寺」などで新境地を切り開き、前進を続けています。
さて松本さんの言葉です。「人に会う意味は、会う前よりも会った後の方が得られるものがあるからです」。
その言葉の通り、お互いにとって貴重な時間です。良い時間を共有して、会う前よりも別れる時の方が、暖かくて心が安定している状態なることが人と会う意味なのです。人と会うことは成長することです。そして誰と会っても学べることがあります。会ったことはありませんが、ある人は一年365日の内、300日は違った人と食事を共にしているそうです。人脈とは、既に名声のある人や権限のある人と接触を図るものではなくて、自分と一緒に成長するであろう人と、無名の時代に知り合い交流を深めておくことにあります。相手も社会の階段を昇って行く、自分も負けないようにと自分の進む分野を昇って行く。気がついた時には、かつて自分が望んだように、誰かが自分に会いたいと望んでやって来てくれるようになっている。他人の動向に惑わされない、そんな自分だけの階段を昇って行く人生は素敵なものです。
ところで前田さん。数十年前は、一か月の生活費を5,000円で子どもと暮らした経験があるそうです。キャベツの芯を刻んでお好み焼きにして生活をした経験もあったけれど、フラメンコに出会って今も変わらずに成長を続けています。全ての経験は人間の根の部分に蓄えられています。根が太く深く拡がって決して倒れない幹となり、葉が芽生え花も咲くのです。いま咲いている花だけを見ていても真価は計れません。見えない根の部分にどれだけ経験を詰め込んでいるのかが将来の伸びしろの部分なのです。
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