524.炎の道成寺
 森久美子さん主宰のドラマティコ・フラメンコ「炎の道成寺」。安珍清姫の物語は愛と憎悪の物語として有名ですが、フラメンコによる安珍清姫の表現は違っていました。前半は二人を中心とした愛情あふれた舞台でした。そして中盤は見どころで個人的な感想ですが、最も感銘を受けた舞台が展開されました。以下は個人的解釈ですから、本来の物語や森さんや演じた人が表現しようとしたことと、恐らくは違っていることをご承知下さい。

 清姫と過ごす時間が過ぎ、再び修行に向かう安珍が登場します。ダンサーは愛情を赤の衣装で表現し、自分の信じるところ、つまり信念のようなものを黒の衣装で表現。赤の衣装に囲まれた安珍ですが、修行の身である自分が清姫からの愛情に溺れている姿に迷いが生じ始めます。このままの時間を過ごしていると自分の目指しているものを見失うと感じたのです。赤い衣装のダンサーの集団から抜け出して、黒い衣装のダンサーの集団に加わった安珍。この瞬間の葛藤が、私の鑑賞した中で最大の見所でした。色が凄いのです。真っ赤な赤からダークな黒へ。黒は一見、悪のように映りますが決して悪ではありません。深い信念の中に沈み込む決意の黒なのです。愛情と信念のどちらを取るべきなのか葛藤する安珍。言葉はありませんが手の表情とステップでその心が伝わってきます。

 赤の集団から抜け出したら最後、再び戻ることは出来なくなります。これは実社会でも同じです。大きな決断であればあるほど決意が必要ですから、安易に引き返すことは出来ないのです。それはプライドとも言えるもので、他人からはそれほどの事には映らなくても本人にとっては生きる理由の一つとも言えるものなのです。
 心が移り行く様子がダンサーの男性から伝わってきました。私は、「彼はもう引き返せないところに行った」と心で呟きました。今の瞬間の大切なモノと引き換えても、人生において実現したいものがある。その信念があることは素晴らしいことですし、それを選ぶことは正解です。尤も、もし安珍が信念を捨てて愛情を選んだとしても、それも正解なのですが・・。 

 ですから本当は両方を獲得するために赤と黒を融合させるべきだったのです。しかしそれは愛情に溢れた人だけが赤と黒の融合を実現出来るもので、若い頃はそれが出来ないのです。ドラマなどで良く見る、「私と仕事のどちらが大切なの」と詰め寄られるシーンがあります。実際はどちらも大切なもので比較することは出来ないものですが、この場面の安珍の葛藤は、そんな現代ドラマを彷彿させるものでした。

 女性からすると、赤は燃えたぎる情熱で黒は自分から遠のいて行く悪の黒なのかも知れません。何故潤しい赤を選ばないで、苦しい暗黒の世界に向かうのか理解出来ないのです。
 女性と男性では同じ場面に遭遇しても、感じ方は違うものだと認識しておく必要があります。

 さて信念の道を選択した安珍。後半は清姫の表情が一変します。表情と心情が変わったのは、手の動きと体のしなりで分かります。安珍を追い詰めた清姫の心は赤に黒が染まり始めます。スカーフで表現しているのですが、今度の黒は憎悪の黒ではないでしょうか。そして憎悪を包み込んだ愛の炎で、道成寺のお寺の鐘を燃やし尽くします。そしてその炎の色は再び赤に変わっているのです。赤と黒のスカーフで清姫の気持ちを演出させているように感じました。
 そして目的を達成した清姫が鐘に倒れこんだところで場面は終わります。赤く染まった舞台は愛情の深さを表現しているようでした。

 森さんと一緒に主演を張った安珍役の谷口雅基さん。驚いたことにフラメンコを習い始めてからわずか4年。1,000人の観客を前に素晴らしい舞台でしたから、プロかこの道のベテランだと思っていました。唯一の男性ですから場面が変わっても踊りっぱなしですから、相当な体力と技術なのです。
 4年の経験者が主役を張る。このことから学ぶべきことがあります。初心者であっても若くても、舞台に立つ限りは主役を演じる覚悟を持つべきなのです。人生の舞台ではいつでも自分が主役ですから、経験が少ないだとか、もっと練習してからだとか言って逃げては駄目なのです。観客に自分の存在を問う姿勢が人生に必要ものなのです。観客とは社会であり、姿勢とは生き方なのです。28歳、経験4年の谷口さんから学ばせてもらいました。

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