「絶対に出来ます」と言うと、「世の中に絶対なんてありません」と否定されることが多々あります。確かに科学的には絶対を証明することは困難で、絶対はあり得ないかも知れません。しかし絶対と言い切れないと極端に歯切れが悪くなります。
不祥事があった場合、相手から「絶対に繰り返さないと言えますか」と問われた場合、「絶対とは言えませんが、繰り返さないように取り組みを強化します・・・」となると、意欲がないように映ります。
でも科学的に「絶対」と言える確率が99%だとしても、残りの1%は自分の気持ちで補えると考えたいものです。つまり99%程度確信があるとすれば、残りは責任をとる覚悟を持つことで「絶対」になるのです。
また第三者には実現不可能と思えることでも、実際にアイデアを企画し実行計画を立て実現に向けて行動している本人にとっては少なくとも「絶対」に実現するものなのです。第三者は根拠もないままに「絶対なんかある筈はない」と言いますが、それでは「絶対に達成しない」と言える根拠を示せない筈です。それは、論理的に出来ない根拠を積み上げたものではないからです。
それよりも実現に向けた取り組みを行っている人にとっては、既にプロセスはありますし、強い思いで残りの1%を補完することで絶対に達成出来るものがあるのです。「絶対にやり遂げます」と発言する人の覚悟と気持ちは相当強いものです。それに対して「世の中に絶対はないので、そんなものは絵にかいたモチ」などと言う人には覚悟はありません。
それは結果から見ると明らかです。ある企画に全力で取り組んで目標を達成し形になった時、「絶対にやり遂げる」と発言した人は、その責任を果たしますが、「絶対はない」と発言した人は、その結果に関心がないどころか、その取り組みを忘れている筈です。それは当事者ではなかったからで、責任をもった発言ではなかったからです。
和歌山県の事例ですが、過去、和歌山市には民間のFM局がなかったのです。なかった理由は、「FM局なんて出来ない」と思っていたからなのです。「出来る」と思って実行した人がいたから実現させることが出来たのです。
和歌山県に、独立リーグ参画を目指した野球クラブチーム「
紀州レンジャーズ」が誕生しました。これに関しても、誰も和歌山県では「出来ない」と思っていたのです。ところが「出来る」と思っていた人がいたから、実現することが出来たのです。
これらに関して構想段階での会話です。
「エフエム?和歌山市で出来る訳ないだろう。設備もスポンサーもないのに」と当事者の思いである「絶対に実現する」を否定した人がいました。
「独立リーグ?和歌山県で出来る訳ないだろう。人もスポンサーもいないのに」と当事者の思いである「絶対に実現する」を否定した人がいました。
どちらの思いが強いか明らかです。「絶対に実現する」と思った人の思いが「絶対」になり、「絶対はない」と言った傍観者の言葉は遥か彼方に消え去りました。それぞれの思いが違ったのです。
世の中に絶対はないかも知れませんが、絶対を信じる人がいることは明白です。その人達が絶対を極限までに絶対に近づけているのです。「絶対実現出来る」と話す人と「世の中に絶対はない」と言う人を比較すると、「絶対達成する」と思う人が、より良い世の中を創っていくことが分かります。傍観者や批判者が世の中を創ることは出来ないのです。これは絶対ですね。