発病は何百万人に一人という難病があります。そして和歌山市内でも若くしてこの病で苦しんでいる人がいます。本人も大変ですが家族の皆さんも大変です。その大変さは闘病との闘い、治療の苦しさ、経済的問題、そして何時ゴールを迎えるか分からない時間との闘いです。
人はゴールがあるとそれを目標として困難と闘うことが出来ます。
例えば選挙。長く厳しい戦いですが、その先には確実にゴールがあります。最初はゴールが霞んでいても時間の経過と共に霧は退散し、いつしか晴れ間が広がります。
例えばマラソン。私は素人用の短い距離のマラソン経験があるだけですが、途中、何度も歩きたくなります。それでも次の電柱まで、次の電柱までと目標を定めて走ることで、確実にゴールが近づいてきます。これも確実に目標があるから頑張れるのです。
ところが難病との闘いではゴールは見えません。もしかしたらゴールがないかも知れないのです。ゴールや目標がない長い時間を要する闘いは肉体的にも精神的にも厳しいものになります。ゴールが見えない、イコール希望が見えないことと同じことです。希望を見つけにくい闘いを頑張り抜くのは、とてもつらいことです。
そして蝕まれる体。治療に耐えても耐えても、病状は良くならないと感じた時、人はどこまでその治療に耐えられるのでしょうか。余程の強い精神力が必要です。
そしてそれを支える家族。まして自分の子どもが難病と闘っている姿に接する両親の気持ちは想像出来ませんが、自分の体が傷つけられるよりも精神的には厳しいのではないでしょうか。
体を替えることが出来ない。代わりに耐えることも出来ない。周囲の人が出来ることは限られていて、家族の負担を軽減すること位です。第三者は難病で苦しんでいる痛みを共有出来る訳ではありませんから、本人や家族の負荷を軽減出来るのが精一杯です。そんな些細なことでも支援出来るのが周囲にいる私達であり、行政の役割です。
法解釈や規程の運用をして、本当に困っている人を何とか助けることが行政の役割でもあります。運用が厳しいようなら、その適用枠を拡げるように国を初めとする責任箇所に対して働きかける姿勢も欲しいところです。
和歌山市の福祉担当箇所には、気持ちを持った人がたくさんいてくれます。本日は、難病と闘っている子どもの両親とその母親の兄弟が市役所に来てくれました。家族の皆さんが来たのは、昨夜、入院中の子どもの今後の治療方針を担当医と一緒に確認している時に、余りの厳しさに家族が涙したことに起因しています。子どもがこれからの治療に耐えられるのかの不安、何があっても家族が支えていくことの覚悟、その気持ちを持って皆さんで来てくれたのです。
その気持ちを汲んで、相談に受け答えしてくれた職員さんに感謝すると共に、今後の支援の進め方についても協議することが出来ました。
行政機関の役割は公平公正ですが、福祉施策は一人ひとりの状況は違うため施策を一律適用するのでは心がありません。心を込めて接することが福祉に携わる人の基本ですが、私達が思っている以上に相談者が多く、仕事が輻輳している市役所の担当箇所では、誰でも何時でも同じような気持ちでの応対は難しいものです。それが出来るのは福祉に関わっている行政のプロとしての自覚と責任があるからです。
安心して相談出来る、任せられるプロが、私達のまちにいることは何よりも生活者にとって心強いものです。法律を作ったり規程を定めるのは机上かも知れませんが、それらを運用するのは現場です。現場の人が暖かい気持ちを持っていることが、難病に苦しむ本人と家族の支えとなり、そのまちを暖かくしてくれます。
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