ある方の小学校時代からの友人が先月、癌のためお亡くなりになりました。50歳代の若さでした。もう40年近くも交流していただけに寂しさもひとしおだそうです。癌が発見された時には既に全身に転移していたので治癒の見込みはなかったのですが、それでも最後まで治ることを信じて治療を続けてきました。癌治療は体力と気力を奪い、その結果、生きる力さえ奪ってしまいます。
この方と友人はメールでの交信が中心でしたが、毎週のようにメールを交換していたようです。気力を振り絞ってのメールは、普通の会話が普通でない状態であることを示す内容でした。「がんばる」「早く治したい」などの言葉は、健康である私達が使用しても重みはありませんが、命を掛けて治療している方が使用すると言葉の重みを感じます。簡単な言葉に隠された心の叫びが分かります。
そしてこの方が亡くなる1週間前、娘さんが結婚式を挙げたのです。癌治療が進んでいると言われている入院先の岡山県の病院から和歌山市に戻り、結婚式と披露宴に参列したのです。電車で数時間移動するだけでも体力的には大変なことです。お医者さんからは、ストップがかかったようですが、娘の晴れ舞台を一目みたいと命を掛けた移動と出席でした。抗癌治療のため頭髪は抜けていたので鬘を付けての出席でした。娘さんの気持ちは分かりませんが、母親を安心させたいとの気持ちがあったことから早い目に式を挙げたような気がします。
結婚式と披露宴を最後まで出席した後に、涙を流して喜んでいたそうです。式から1週間後、気力が尽きたのか安心したのか、癌でこの世を去りました。この方から友人への最後のメールは亡くなる直前「ありがとう」の一言でした。
「ありがとう」の言葉はありふれていますが、様々な場面で使用する美しい言葉です。感謝の気持ちを表す場で、挨拶代わりに、そして別れる時にも使用します。同じ「ありがとう」でも込められた意味は全て違っています。そしてこの世から去る時に小学校時代からの友人に宛てた「ありがとう」の意味は何なのでしょうか。
若くしてこの世を去る無念さ。40年の別れ。頑張りとおした気持ち。様々な思いがあることだと思います。でもこの世を去る時は後悔することなく、生きたことへの感謝の気持ちを持って後を引き継いでくれる方々に「ありがとう」と伝えたいものです。
言葉のバトンを受け取った人は、その思いを抱えて最後の瞬間まで一緒に生きてくれるはずです。
特に同級生が亡くなると本当にショックを受けると聞きました。同じように学校生活を送った友人がこの世からいなくなることは想像出来ませんが、同じ年の友人達がいなくなることの寂しさは何とも言えないようです。死は自分にも関係のあることだと現実視することになるからです。生者のまちを生きている限り死は切り離された存在ですが、実は死は生と隣り合わせですから、今日の日を生きなくてはなりません。
通夜式と告別式の執り行われた二日間、和歌山市には冷たい雨が降りました。天に無念さが伝わったのかも知れません。
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