388.言語学
 韓国の小学校での英語教育の実態を学ぶために渡韓した方が帰国したため、研修会の報告を受けました。懇談では、忙しさの余り体調を崩しながらも、寝る間もなく実態調査をして来たことをうかがい知ることが出来ました。
 兎に角、英語を言語学と捉え、韓国語と共に、言葉を使って考える力を見につける教育を実践しているようです。母国語、外国語の区別ではなく、言語を活用した考えること、これが教育として重要なものです。

 英語教育の根底には、外国の人とも対等に、そして共通言語により母国語と同等の会話とコミュニケーションが図れることを目指しているように感じました。
 今回も、研修会に赴いた日本人である彼女と韓国で通訳をしてくれた方とは、日本語でもなく韓国語でもなく、共通語である英語で会話をして研修会を成果のあるものにしています。もし彼女が英語を話せなかったとしたら、研修会で成果は得られなかったことでしょう。通訳を介する本当に言いたいこと、確認したいことが相手に伝わらないことがあります。母国語と同じレベルで英語を活用することで、直接外国の人と意見交換するのはどれだけ素晴らしいことなのでしょう。

 そんな思いを、現在の子ども達が大きくなった時に感じて欲しいのです。ヨーロッパでは複数言語を自由に使えるのは不思議ではありません。それは小学生の頃から複数言語を学んでいるからです。母国語以外の複数言語を学んだからと言って母国を粗末に扱っていません。むしろ、イギリスやフランス、ドイツなどに代表される国々は、自国への誇りを強く持っています。言葉によって母国を愛する心が奪われるとは思えません。
 むしろ日本語力、つまり日本語での考える力が低下している状況ですから、言語力が低下していると考えたいところです。国語で考える能力が低下しているのですから、言語学によって考える力を身につけられる教育が必要なのです。韓国やフィンランドの小学校の教科書は、学習する生徒達が考えさせられる内容になっています。

 具体的には絵を見て、文書を読んで、何故、何故、何故を繰り返して考えさせる学習になっているのです。母国語でも英語でも同様ですから、どの言語を活用しても考える力を養成する指導方針になっています。

 考える力を見につけること。これがどの言語を学ぶにおいても根本にあるものです。
 学ぶことは生きること。生きることは学ぶことです。学ぶこととは考える力を見につけることに他なりませんから、言葉と文書を理解することの重要性が分かります。人は言語により意思疎通を図り、安全で安心出来る社会生活を過ごしています。人が文化的な生活をするための基本は、ある事象を言語で表現した時に、言葉を発した人と同じ事情が相手にも分かることにあります。

 もし私が携帯電話を持ち合わせていなくて火事を発見した時に、通りかかった人に「あの家が火事ですから、急いで消防に連絡していただけませんか?」とお願いしたとします。相手が私の言葉を理解してくれていたら、直ぐに携帯電話で消防に火事の場所を伝え出動依頼をしてくれます。これが共通の言葉で理解し合える関係です。
 ところが言葉の理解力がないと、同じ依頼に対して適切な行動をとってくれない場合も考えられます。再度、質問を繰り返し記載します。
 「あの家が火事ですから、急いで消防に連絡していただけませんか?」との依頼に対して、相手が言葉の本当の意味を理解していない場合は「私は急いでいるので関係ありません」と素通りしてしまいそうです。

 相手の言葉の意味を理解していない、言葉の意味を知ろうともしない、或いは考える力を持っていない場合は、このようなすれ違いが発生しますから、安心出来る社会生活が出来ないばかりか、日本人同士の社会生活が崩壊してしまいます。如何ですか、言語を理解する力の大切さが分かりますし、考える力を強化することが人間関係と社会を安定させることが分かります。
 母国語、外国語ではなく言語学として、言葉を通じて考える力を見につける教育を望みたいものです。考える力を身につけることは、生きる力を強化することにつながります。

コラム トップページに戻る

前のコラムへ   /  次のコラムへ