社会における50対50をどう考えるのか。当然のことながら50対50ならその分野は変わりません。ところが少しバランスが崩れると流れは変わります。それは10対90でなくても50.1対49.9で良いのです。0.1の差がどれだけ大きいのか気づくと肩に力を入れなくても良さそうです。
均衡している50の状態なら絶対に今のままで価値観は変わりません。ところが0.1だけ動くとその方向にベクトルが動き始めますから、少しずつでも社会は動き始めます。
もっと変えるためには49対51の割合を51対49に変えると良いのです。ベクトルの向きは逆方向に変わります。逆方向に変わると常識が覆ることを表します。
一例として、地球温暖化に歯止めがかかっていませんが、それは私達が内心、生活の豊かさに価値を置き地球温暖化問題への関心はその次にしているからです。
この事例を分かり易くするために二つに分類すると鮮明になります。「生活の豊かさ重視」<「地球温暖化問題重視」と考える人が50%を超えているとベクトルは「→」となりますから、地球温暖化は解消されることなくより深刻な方向に向かいます。
ところが、「生活の豊かさ重視」>「地球環境問題重視」と考える人が50%を超えるとベクトルは「←」と左方向に向きを変えるため、地球温暖化は確実に解消する方向に向かいます。
地球温暖化の問題を例にとりましたが他の分野でも同じです。
凶悪犯罪が増加していることから刑法を改正して、犯罪に対する刑を統一すべきか否かについての問題です。「どちらかと言えば」や「やや」といった表現でもはっきりと「犯罪抑止のために行為は無視して結果で判断すべき」か「結果が同じでも犯罪に至る行為に応じて刑量を検討すべき」のどちらかに区別します。
「犯罪抑止のために行為は無視して結果で判断すべき」>「結果が同じでも犯罪に至る行為に応じて刑量を検討すべき」となれば結果無価値論となり、犯罪を犯したら全て画一的な刑を適用する方向に向かいます。人の気持ちや精神状態を考慮しなくても良いので被害者から見ると公平な刑の確定が期待出来ます。
逆に、「犯罪抑止のために行為は無視して結果で判断すべき」<「結果が同じでも犯罪に至る行為に応じて刑量を検討すべき」となれば行為無価値論をとり、犯罪を犯しても加害者の心理状態や境遇を考慮することになり、同じ犯罪であっても刑に軽重が発生します。そのため、被害者にとっては納得出来ない判決が下されることも出てきます。
このようにベクトルが「←」から「→」に変わると社会の価値は一変します。向きが変わるためには圧倒的な人数が必要ではなく、一人だけでももう一つの価値を上回れば、価値の向きは変わり始めます。
一つの差で天と地ほど境遇が変わることを実感出来る例があります。大相撲本場所での8勝7敗と7勝8敗では全く違います。前者だと次の場所で地位は上がり、後者の場合は次の場所で地位は下がります。
ボクシング世界タイトルマッチが判定に持ち込まれた時、110対109か109対110では人生は違ったものになります。たった1ポイントの違いで世界王者になるか、栄光に無縁のまま終わるかが決定されます。
このように考えると、大きな仕事をするためには大多数の同意が必要ではなく、一人ひとりを説得していく作業が重要であることに気づきます。大勢の価値観を変えるのは至難の業ですが、周囲の一人と価値観を共有するのは気の遠くなるような作業ではありません。
まず話が通じる隣の人と話し合いを始めることから、固定されているような錯覚をしているこの社会は変わります。
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