181.表現者
 評論家とは自分の専門分野を持ち日頃から研鑽を行い、時には現場に入って感じたことを含めて評論します。局部的に戦争が起きた時に登場する軍事評論家や、中東問題が緊張した時に登場する中東評論家などは、その道で何十年も勉強を続けてきた方達で、絶えず情報収集を行なっている筈です。ですからどの場面で登場を要請されても、的確な評論を行なうことが可能なのです。
 評論家になるためには、専門分野を持ち独自のルートで情報収集を行なっていること、何よりも長い年月をかけて研鑽を続けることが条件です。

 それと似て非なる存在として、にわか評論家が良く世間に登場します。課題となっている問題に対して自ら関わらず傍観者であり、経過の途中でも全く意見を発しないのですが、結論が出た途端に自分なりの理屈を並べて、当事者批判を行ないます。現場に入って一緒に解決に向けた取り組みをする訳でもなく、課題を解決する過程において情報収集量は少なく、当事者と話をすることもない。でも当事者達が様々な困難を乗り越えて導き出した結果に対して容易く評論する人が、にわか評論家です。
 結果を見て評論するのは楽なものです。専門家ではなくても評論できるのですから。課題解決のために努力を重ねた人がいます、その結果を導くまでには多くの努力と時間を要しています。どの様な結果が出されても、現実社会で全員が納得する結果を導く事は非常に困難です。お互いが最大公約数的解決を見たのであれば、それに対して関わりの無い第三者が批判をするのは筋違いです。

 歴史を見て、後の世代の人が評論を加えるのは簡単です。結果が出されてその結果に基づき次の歴史的行為があるからです。明治維新の功労者である西郷隆盛が西南戦争に加わり敗れた事実をして、最後は悪かったと言うのは自由ですが、評論する人はどこまで西郷隆盛という人物を知っているのか、その苦悩や立場、人間関係など十分調査した上で評論すべきです。単に結果だけを見て批判するにわか評論家がいたとしても、支持は得られません。
 評論家と言う言葉が、必ずしも良い意味に用いられない理由はそこにあります。でも評論家は他人や事件を評論するために日頃から誰よりも研鑽を重ねているですから評価されるべきです。それに対してにわか評論家は、関わりの無い所から突然絡んでくるのですからプロの評論家ではなく、世間が密かに笑っている評論家とはこちらの存在を指します。

 さて造語だと思いますが世の中には表現家の存在があります。これは他人の行為を評論するのではなく、自ら行動を起こし表現していく人のことです。他人の評論は比較的簡単ですが、自分が社会を変えるために自ら企画、行動して表現するのは大変なことです。表現家は評論家よりも支持されるべきだと言う人がいます。自ら社会のために行動を起こす人はそれだけで評論家よりも役に立つ存在です。
 表現家は何もない所から課題に立ち向かうために自分で行動を起こします。その表現家を評論できるのは、行動している人と同様に行動を起こし現場にいる人か何十年も同じことを研究し続けてきた本物の評論家だけです。
 表現家と評論家はどちらも必要な存在ですが本物と認められるのは難しいものです。

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