130.養老孟司さん
      
 パートU
 人は価値のないものは作りません。例えば私達が子どもの頃にはどこの地域でもあった池は、造成されたため姿を消しています。水生物とも遊べる子どもにとって貴重な遊び場でしたが誰も復元しようとしません。それは大人にとって価値がないからです。子どものモノを削って、大人が価値ありと認めたものだけを作っています。その結果、都会など人工のまちには、人が価値を認めるものだけが存在します。雑草やゴキブリは人が見えるところには存在しなくなります。人が意識しているもの以外は存在してはならない厳しい世界となっています。

 一方、世界遺産になるような自然は、かつて人は何も活用しなかった、或いは開発しなかったことから自然のままで残されています。それが価値を持ち出したものです。
 世界は人工の世界に向かっていますが、この二つの状態は存在しています。ところが、この二つの間にある層が消えました。田や里山などがそれに該当するように、人が手を加えることで存在していたものです。手入れが必要なものが姿を消しています。手入れとは、人が何か行為をすると人が思っているような結果が出ることです。ひまわりの種を蒔くと時期が来るとひまわりが咲くように自分の行為が結果として現れます。

 現代社会はボタンを押せば直ぐに結果が出るものばかりになっています。ボタンを押すだけで結果が出たら因果関係が分かりません。行動と結果の因果関係が分からない社会に子どもは育っていることが問題です。手順の要ることはしない、させない状況ですから何も出来なくなります。「ああすれば、こうなる」世界があるだけです。
実は1000年以上もこのような中間層の時代が続いて来たのです。現代ほど自然を大切に思っていなかったし、人工の都市もなかったことから分かります。世界は人工のものに向かっていますから、子どものためにも手を加えることの大切さを復活させる必要があります。
 大人が、子どもが何もしない、出来ない社会にしてしまったのです。
 現在社会にあるものは殆どのことは、何十年も研究されているので新しい発見は少なくなっています。だから新しいことをするためには見方を変える必要があります。見方を変えると見えるものも変わってきます。

 人もそうです。人は変わるのが普通です。だから人を変える仕事が大切で、教育は人を育て変化させる大切な仕事です。個性を大切にと言いますが、個性を大切にすると人は変われなくなります。個性とは天性的な固有のものですから、必ず他人と違うものです。オンリーワンの自分は個性的ですから、個性が大切だとすると、変えることは悪いことになります。教育は人を変えていくものですから、個性を大切にする方針になると、教育は飾りとなってしまいます。本来の人を育て変えていくための教育はなくなってしまいます。
 人は変わるのが基本です。学び何かに挑戦することで変わりながら、自分を見つける人生の旅をしています。色々な分野を学び経験することで、自分だけが出来ることを発見出来たらそれを生涯の仕事にします。その結果が、この道一筋と言われるようになります。
 何も経験していない最初から、一つのことを行う生き方をこの道ひと筋とは言いません。
 養老先生は65歳になってようやく本が売れました。努力、根性、辛抱が要ったようです。
 成果が出るか否か分からないものを続けるには相当な辛抱が必要です。やり続けることの尊さと難しさが分かります。

 最後に、養老先生の若い時の経験で役立つ話を紹介します。
 解剖学を専攻していたため、解剖の実習を行うには死体が必要でした。養老先生は自分で病院に行って死体を運ぶことをしていました。死に向き合い解剖のために死体を提供してくれた方に感謝しながらそれを運ぶことも自分の仕事です。自分のやるべきことなのに、死体運びは嫌だから他人に任せるのでは姿勢がおかしいのです。嫌なことは人に任せる仕事をしている人は信頼されませんし自分のものになりません。
 自分のやるべきことの中で、嫌な部分や面倒な箇所を他人にやってもらい、最後の仕上げだけをするのでは、自分を変えることは出来ませんし、それだけの人だという評価を受けるだけです。

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