北里大学の養老孟司教授の話を伺う機会がありました。世間と社会について認識を新たにしました。
日本人は世界に類を見ないほど世間を気にします。人は動物ですから人として生きることが自然で、世間を気にすることが変なのです。生物は一人で生きることを示す根拠として、生物を表わす漢字は一文字が基本です。熊、虎、鷹などがそうですし人も該当します。
ところが、人間という言葉は中国語で「世間」を意味します。つまり中国の感覚では「世間の人が人」であり、日本人感覚では「世間の内の人」が人間です。世間の内とは共同体のことです。うちの○○と言う表現がありますが、この「うち」は世間の内を指します。
世間とよく似た言葉に「社会」があります。どう違うのでしょうか。
世間は、自分が入っている社会を内から見ている状態を言います。
社会は、自分を除く外の世界を指します。
だから人は世間体を気にしますが、社会のことは人事のように思っています。社会には自分が入ってい ないため、どのような出来事であっても関心は低いのです。
もっと具体的な例をあげると、イラクで日本人が人質になっても「社会」の出来事ですから、通常の人であれば日常生活への影響はそれ程ありません。しかし、仮に子どもが万引きをしたとすれば「世間」の領域になるため、近所づきあいや日常生活に支障をきたすことになります。このような違いがあります。
日本人は「世間=共同体」の中で生きていますから、この内の中の出来事から逃れられないのです。
余談ですが「社会」という言葉は、夏目漱石が世間と区別するために作ったとされている、明治時代に出来た新しい言葉です。江戸時代までは「社会」の概念がなかったのです。
日本は共同体が国になった非常に珍しい国です。共同体は、大化の改新の頃からの概念です。元来、日本人は大陸や南国からの移民の集まりでした。祖先が異なっていては一つの共同体として統治することは難しかったのです。古事記や日本書紀で神話の世界を記したのは、それ以前の祖先のことを言わないようにしようとする意図があったかも知れません。そうして祖先のことは水に流して、同じ共同体を形成していったのです。
当時の日本は今のアメリカのように、様々な人種が集まった国でした。今の日本の姿は、アメリカの1000年後の姿かも知れないのです。日本の社会はアメリカ型社会に近づいているようですが、実は太古の社会に戻っているかもしれないのです。
常識とされていることは疑う必要があります。
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