1990年代後半の人たちは、バブル崩壊後で時間と不安を持ちながら生活をしていました。東京のルーズソックスを履いた高校生がインタビューで「癒されたい」と答えていたことを垣平さんが話してくれましたが、都会や仕事、必要以上の競争に疲れた人がたくさんいたのです。そんな人達が癒されるのは難しいことではなく、少しだけ生活の場を離れ古来より癒しの地であった熊野古道を歩くことを推奨したのです。博覧会のテーマは「癒す」「充たす」「蘇る」でしたから、熊野古道はこれらの三要素を与えてくれる道だったのです。
但し、当時の熊野古道は今ほどの知名度はなく「熊野古道」だけで人が集められるか不安要素がありました。そこで田辺市と那智勝浦町にシンボルパークを設置して、熊野古道へのゲートウェイ、ナビゲートとしたのです。もし現代のようにデジタル社会であれば、シンボルパークは必要なく、直接、熊野古道や地域イベントそして体験イベントの地を訪れる博覧会に仕上げていたと思います。
博覧会閉幕後、その年の流行語大賞に「熊博」が全国に発信した21世紀の価値「癒し」が選定されました。垣平さんは「嬉しかったなぁ」と感慨深く語ってくれました。あの年の流行語大賞にノミネートされたのは小渕首相の「ブッチホン」、松坂大輔さんの「リベンジ」上原浩治さんの「雑草魂」などがありました。その中の一つとして選定されたのですから「南紀熊野体験博を開催したことは間違ではなかった。そして『癒し』を発信できたことが評価されたので嬉しかった」と伝えてくれました。
また閉幕後、経済産業省にお礼の挨拶に訪れた時「おめでとう」と迎えてくれたそうです。それは日本で初めてのオープンエリア型の博覧会をやり遂げたこと。熊野古道を全国区にしたこと。そしてオープンエリア型の博覧会は他では真似ができないことを称えてのことだったと推測しています。
何よりも素晴らしかったのは「手作りの博覧会だったこと」です。地方自治体が開催する博覧会は、大手広告代理店やイベンターが入りプロデュースしていますが、「熊博」は実行委員会メンバーがやり遂げた博覧会だったのです。だから25年が経ってもメンバーが集まりますし、日常から仲良くやっているのです。確かに、同じ職場で働いた人が集まる機会はないと思います。南紀熊野体験博実行委員会はみんなが同じ体験をした特別な組織であり、絆が保たれていると思います。
時とは不思議なもので、25年も経過すると辛かったことや嫌なことは時間が洗い流してくれています。良い思い出だけを残してくれています。今語る思い出話は良いことばかりで、いつの間にか辛かったことや嫌だったことは消えているどころか、懐かしい良い思い出に変化しています。それが経験になって身体にしみ込んでいるのです。たくさん経験をした方が良いと言われますが、人生はまさにその通りです。25年が経過した今、人と経験が残っていますが、これは買うことのできない宝物です。
垣平さんは81歳、嶋田さんは77歳だと聴きました。当時、垣平さんは56歳。嶋田さんは52歳だったのです。振り返ると、お二人は素晴らしいリーダーだったと思います。