コラム
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2024/10/23
1943    袴田事件その1

和歌山県のエフエムマザーシップの立谷さんがパーソナリティを務める番組にゲスト出演しました。令和6年9月に白浜町でお会いした時に「ラジオ番組の次回のテーマは『袴田事件』を取り上げたい」と依頼を受けました。事件は1966年に起きたものなので、事件の名称や簡単な経緯は知っていたものの、ラジオで語れるほどの知識はなかったので、資料や僕も学んでいた伊藤塾・伊藤真塾長の「人質司法」の見解などを学びました。そこで得たものがあったので、今日の番組で話しました。

特に知識として蘇ってきたのは、かつて伊藤塾長から徹底的に教えられた憲法の価値についてです。憲法13条「幸福追求権」を元にした解釈を伝えることができたと思います。

それは僕が番組で話をしている最中、ラジオ局の社長がずっとメモを取ってくれていたことや、前半と後半の間に音楽を流す際に、社長が「もっと話を聴きたいから曲を流すのは1分だけにします。直ぐに後半に行きますので、よろしくお願いします」と話してくれたから感じたことです。

番組では事件に対する私たちの怒りと悲しみの感情と憲法上の人権侵害の両方で解説する必要があると思ったので、冷静に分かりやすく伝えられたと思っています。

憲法13条の前半は「個人の尊重」を意味しているもので、学校では基本的人権と習っています。僕はこの第13条が日本国憲法で最も価値がある条文だと思っています。私たちは幸福追求権と言っているのですが、この価値について、伊藤先生は当時授業で次のように語ってくれました。

第13条はドラえもんのポケットのようなものです。憲法が人権を定義していないのは時代と共に新しく護るべき人権が誕生してくるからです。例えばプライバシー権や肖像権、新しいものではアクセス権、そして問題になっている自分の情報を消す権利も将来は人権になるかもしれません。プライバシー権や環境権など、昭和の高度成長の時代にはなかった人権です。社会の進展と共に人権として認められたもので、今では当たり前の権利になっています。憲法が人権を定義していないのは新しい人権を生み出すためです。勿論、人権として認められるためには最高裁判所が判決を出して判例になる必要がありますが、新しい人権の根拠になるものが第13条の幸福追求権なのです。

憲法上の主な問題点は「人身の自由」憲法34条、「恣意的拘禁の禁止」憲法34条、「無罪推定の原則」憲法31条、など、憲法が保障する人権が侵害されることです。これは民主主義国家、法の支配の日本国にとって、あってはならないことです。国際社会に対しても恥ずかしいことで、法の支配に基づかない国家運営をしているなら、近代国家として認められないことにもなりかねません。

立谷さんとは陸奥宗光外務大臣の活動でご一緒していますが、不平等条約改正の歴史から明らかなことがあります。わが国はイギリスとの間で最初の不平等条約改正を達成しましたが、その理由の一つとして国内法が整備されたことがあります。法律に基づいた国家運営をしていることが近代国家であり、法の支配の国であることがイギリスから信頼され、平等条約締結へと至ったのです。

近代国家にとって法律の整備はそれほど大事なもので、憲法ともなれは尚更です。

憲法に抵触するような国家権力を行使しているのであれば国際社会から信頼をなくしてしまうことにつながります。権力が法律よりも前に出ていたら国家権力者の恣意的要素が判断材料になります。

まして国家権力が憲法より上位にあれば、民主主義国家ではなく、法の支配に基づく国でもないので話になりません。一人の人生を台無しにした国家権力が存在しているなら改めるべきですし、再審まで時間がかかり過ぎている法律が存在しているなら直ちに国会審議を経て改正すべきです。