コラム
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2024/4/8
1911    佐々木只三郎傳

令和6年3月24日に見せてもらった「佐々木只三郎傳」の「坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺」のページを読みました。坂本龍馬が暗殺された近江屋事件がリアルに表現されています。このページの最初のところです。

「君がその部下の見廻組隊員を率いて、坂本龍馬・中岡慎太郎を斬りに行ったのは慶応三年十一月五日夜のことで、君が見廻組隊員とともに上洛してから三年目のことである」から物語は始まります。そして龍馬が斬られる場面です。

「龍馬が慎太郎と会談していた時、バタリと大きな音がしたので『ほたえな』(ふざけるなの意味)と言って、店の者が戯れているのだと思って叱りつけた。その瞬間に疾風のごとく渡邊、高橋、桂の三人が八畳の間に跳り込んで来て一人は慎太郎の後頭部に斬りつけ、一人は龍馬の前頭部を横に斬った。龍馬は刀を後の床の間に置いてあったので、これを取ろうとうしろ向きになったところを、また右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

しかし彼はそれにもひるまず刀をとって立ち上ったが、その瞬間にまた三の太刀が来たので、刀を抜く暇なく、それを鞘のままで受けとめようとしたが、その家の天井は東の軒に向かって低く傾斜していたので、鞘の鎧が天井に当って、それを突き破り、敵の刀は鞘越しに三寸ほど龍馬の刀身を斜に削り、更に流れて龍馬の前額を鉢巻なりに横に捥ぎ去った。殊に初太刀は脳の白く分出するほどの重症であったので、もはやたまらず石川刀はないか、石川刀はないかと叫びつつ、その場に昏倒した」。

佐々木只三郎が龍馬を斬る場面が、その時、現実に起きたことを連想できるぐらいに描かれています。龍馬暗殺の史実は分かりませんが、今では入手不可能なこの本に出合えたことの奇跡を大切にしたいと思います。龍馬暗殺の犯人が佐々木只三郎であるかどうかは別として、紀三井寺を訪ねたことから稲塚正勝住職に出会い、この本を見せてもらいながら龍馬と佐々木只三郎の事件を解説してもらえました。

紀三井寺に行かなければ、稲塚住職を訪ねなければ、このめぐり合いはなかったのです。土曜日の「龍馬World in和歌山」大会実行委員会で「佐々木只三郎のお墓が紀三井寺にある」 ことを知ったので、翌日、紀三井寺を訪ねることにしたのです。この時は瀧本院のことや稲塚住職のことは知りませんでしたが、現場に行くことで出会うことができたのです。

「龍馬World in和歌山」大会を開催することで、故郷の偉人、陸奥宗光伯のことを今一度学びました。

そして龍馬が和歌山県に来た足跡を調べているのですが、勝海舟と龍馬が加太から和歌浦を歩いた歴史はあるもののその足跡はなく、高野山にも龍馬のお墓はないのです。龍馬と関係していた佐々木只三郎のお墓は残念ながら3年前に会津に移されていましたが、「佐々木只三郎傳」と瀧本院の「過去帳」は残されています。そしてこの歴史を語れる住職もいました。和歌山県と龍馬との間にあった歴史の一部が和歌山県にあったのです。この歴史も埋もれさせることなく語り継ぎたい歴史です。

帰り際、地元、紀三井寺の人に出会い懇談する時間がありました。

「紀州の歴史を語れる人は少ないですよね。陸奥宗光が和歌山県出身であることを知っている人も少ないと思います。陸奥宗光のことを伝える活動をしてくれていることは、和歌山市の歴史好きの一人として嬉しいことです。

また皆さん知らないと思いますが、和歌山市で一番古い旅館が紀三井寺の『はやし』です。

明治15年に『はやし亭』が出来たのです。江戸時代には旅館『大坂屋』もあったのですが、今はなくなっています。陸奥宗光と佐々木只三郎、そこに人物ではありませんが『はやし亭』のことも知っておいてください。

機会を見つけて陸奥宗光のことも教えてください。今日、片桐さんとの良い出会いがあったことを嬉しく思います」と話してくれたことも大切な出会いです。