コラム
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2014/2/20
1412    フレッド和田勇さん

ソチオリンピックが始まっていますが、熱戦を観ているともう次の東京オリンピックへの期待が沸き起こります。東京オリンピックというとフレッド和田勇さんの活躍を思い出します。昭和39年の東京オリンピック開催に尽くした人物で、先進国入りするためにわが国でオリンピック開催をすることが悲願だった夢を実現させた人がフレッド和田勇さんです。

日本の独立は昭和27年4月のサンフランシスコ講和条約を締結した時です。まだ67年前の歴史に過ぎません。余談ですが、昭和36年生まれの私が生まれるわずか9年前に日本国は独立をしているのです。当然、生まれてからずっと独立国家なのですが、その少し前までは国際社会では独立国家として看做されていなかったのです。ですから国際社会の一員として認められることは国家としての悲願だったと思いますし、何としても成し遂げるべき課題だったと思います。東京オリンピックは国際社会の一員となるために必要な現実であり、歴史に書き加えるべきイベントだったのです。

さて当時の日本は「アジアで初めてのオリンピックを東京で」をスローガンとして誘致活動を行っていました。当時はデトロイト、シドニー、ブリュッセルの三都市も立候補していて、東京は苦戦を強いられていました。

和田氏はオリンピック招致委員になり、「東京でオリンピックができるなら店はどうなってもいいと思っている。東京でオリンピックをやれば日本は大きくジャンプできるのや。中南米の委員が東京に投票してくれるように、全力を尽くすことが僕の使命やと思う」という台詞がありますが、ロサンゼルスで青果店を経営していた和田氏は自分の商売を犠牲にしても国家のために尽くそうとしたのです。

妻子と訪問したメキシコで「どうして、そこまでオリンピック開催に情熱を傾けるのですか」と質問されます。和田さんは「東京オリンピックの開催こそが、日本の人々に勇気と自信を与えると確信したからです。そのために微力を尽くすことは、日本を祖国にもつ我々の使命なんです」と答えています。

その後中南米を回り、支持を取り付けたフレッド和田勇さんのお陰で、昭和39年の東京オリンピック開催が決定しました。この東京オリンピック開催までの東京にオリンピックを呼んだ男の物語にはいつも感動します。このように、どんな感動的な場面にも人のドラマが隠されています。人が行動することで夢は現実のものになるからです。行動なくしてドラマの感動もあり得ないのです。

昭和39年のドラマは今では歴史の1ページに過ぎませんが、日本人に誇りと自信を持たせ心を熱くさせたドラマだったと思います。日本で世界の舞台を作り、真に世界で戦うことを目指す契機になったと思います。スポーツ、文化、経済の世界で世界を相手として意識するようになったオリンピックだったように思っています。

平成32年の東京オリンピックの歴史的意味を、現代を生きる私達はどのような考えるべきなのでしょうか。再びの経済成長、世界に尊敬され続ける国、それとも世界のリーダーを自覚することを目指すのか。時代のテーマの議論は尽きませんが、楽しい作業です。

フレッド和田勇さんの言葉を紹介します。「Life time challenge」。「人生は挑戦だ」と後に続く私たちに言葉を残してくれています。