コラム
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2012/8/10
1093    生き抜いた経験

お祖母さんのことについて余りにも何も知らなかったことを残念に思います。そしてこんな身近な人のことを知ろうとしなかったことを反省しています。昭和26年に死亡しているのですから昭和36年に生まれた僕のことを知らないのです。自分の娘が長男を出産したことを知らないのですが、きっと次の世界で見守ってくれていると思います。

お祖母さんは働いた経験がなく自分で何も出来なかったことから娘、つまり僕の母親に生きるために手に職をつけることを教えたのです。母親はミシンを習ったので、中学校を卒業後、ミシン工場に就職することができたのです。中学校を卒業してから弟二人を育てたのです。両親がいない戦後を生き抜くことは並大抵の苦労ではなかったと想像できます、というよりもどんな状況であったか想像できません。

母親は「戦後の時代を生きてきたことを思うと、平成不況は楽なものです。あの時代は本当に何もなかったし、生きていけるかどうかも分からなかった」と話してくれました。

ここで大変なことに気がつきました。母親は昭和20年夏の和歌山市の空襲から貴志川町に逃れ、再び和歌山市に戻り、両親がいない戦後の混乱期を生き抜いてくれたのです。その時、結婚することさえ想像していなかったと思いますし、当然、自分の子どものことも想像していなかったと思います。

「空襲後、和歌山市に戻ったけれど家は焼けていたので住むところがなくてアパートを借りました。電気や水もないアパートでした。生きていくことが大変でした」と母親が言うように、生きて行くことが奇跡のような出来事の時代を生き抜いてくれたのです。そのお陰で僕が誕生できたのです。戦後、生き抜いてくれたので生命が誕生したという事実。もし生きることや経済的な苦しさに負けていたら、僕という存在はありません。

強く生き抜いてくれたお陰で昭和から平成の時代に生を授かっているのです。母親から強い力を託されているのです。生きる力、強い意思、他人への思いやり、社会に立ち向かう姿勢、人が生きるために必要なものを全て経験して、それを僕に授けてくれているのです。こんな大切なことを平成24年の夏に気付きました。

生命のバトンを母親から託されて生きていること。その生命のバトンは母親もお祖母さんから受け継いでいるものなのです。生きていることはやはり奇跡だと思うのです。働いたことのなかったお嬢さん育ちのお祖母さんは貴志川町に疎開している時、三人の子どもを育てるために背中いっぱいに荷物を積んで、貴志川町から和歌山市まで行商に出掛けてくれました。貴志川町に帰るときには背中の荷物がなくなり、わずかなお金を得ていました。その苦労したお金で三人の子どもを育ててくれたのです。そして母親もミシン工場で働きながら弟を育てました。母親が働いたことで兄弟三人が別れ別れになることはなかったのです。

そんな戦後を生き抜いた経験と強い気持ちと意思の力を僕は受け継いでいるのですから、平成の時代を切り拓かなければならないのです。偉大な力を託されていることに魂が気付き、今こそ始動する時だと内なる心が伝えてくれています。生きることは凄いことです。