コラム
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2012/8/9
1092    和歌山市空襲

初めてお祖母さんの話を聞きました。明治44年生まれで39歳の時に食道癌で亡くなっています。亡くなった年齢からすると昭和26年1月4日が命日になります。昭和25年夏に神戸の病院で食道癌だと診断され、半年後にこの世から旅立ちました。39歳という若さだったのです。終戦後ですから十分な医療体制はなく医療技術も現代とは比較しようもないので、食道癌の治療はどうしようもなかったようです。

母親は昭和10年生まれですから、お祖母さんが亡くなった時は15歳、中学校3年生でした。中学校3年生の母親が姉で、二人の弟を抱えて生活をしていたのです。15歳の子どもが働いて幼い二人の弟の面倒を見て育てた事実。時代背景がそうだとは言え言葉で伝えられない苦労があつたことは想像できます。

お祖母さん、つまり私の母親の母は、いとさんと呼ばれるような家庭で育ったようです。屋敷か何かの呼称だと思いますが、上品できれいな女性だったと聞きました。ところが第二次世界大戦の末期、和歌山市にも空襲がありました。和歌山市吹上で暮らしていたお祖母さんと母親は、和歌山市への爆弾投下の危険性があったことから貴志川町に疎開することになりました。

時代は昭和20年7月9日の夜のことだと思います。ここで母親から初めて知る事実を聞きました。その日の午前、貴志川町に住む親戚のおばさんにお告げがありました。「今晩、和歌山市は米軍の空襲に襲われるので、和歌山市は炎の海になる。今日、疎開してくるように」という話を聞いた親戚は、お祖母さんの自宅を訪ね、この話を伝えました。荷造りもそこそこにしてお祖母さんと母親、そして二人の弟は貴志川線に乗車して和歌山市を後にしました。その日の夜、親戚のおばさんの予言通りに和歌山市に空襲があり爆弾が投下され、和歌山城を初めとする和歌山市内は火の海になりました。

お祖母さんの当時の自宅は吹上にあり、爆弾は兵舎付近に落とされたことから、兵舎の近くにあった自宅は当然炎上して跡形もなくなりました。その日の様子は、疎開先の貴志川町から和歌山市を見た時、「真っ赤に炎が燃え盛っている様子が見えた」と母親が話してくれました。

歴史に「もしも」はありませんが、そのお告げがなかったとしたら、親戚の人がそのお告げを信じなくてお祖母さん達を迎えに来ていなかったとしたら、そして迎えが来ても一緒に疎開しないでそのまま和歌山市にいたとしたら、その後はありませんでした。恐らく空襲によって昭和20年7月9日に焼け死んでいたことになっています。ここでは母親と書き記していますが、母親は当時10歳の女の子です。結婚もしていないこの時期、焼け死んでいたとしたら、昭和36年生まれの僕はこの世にいない訳です。母親が賢明に生きてくれたこと、厳しい時代を生き切ってくれたことで、僕は生命を得たのです。

生きるために逃げてくれたこと。疎開先での生活、そして終戦後、焼け野原となった和歌山市に戻り二人の弟と共に暮らし仕事をして生きてくれたこと。お祖母さんがこの世を去ってからは仕事と生活の柱となって懸命に生きてくれたこと。そんな奇跡のドラマがあつたのです。昭和36年生まれの僕が生まれる以前の奇跡の物語です。生きることが大変だった時代に生き抜いてくれた母親に感謝しています。