活動報告・レポート
2025年6月21日(土)
「戦後80年体験者が語る和歌山大空襲」講演会
「戦後80年体験者が語る和歌山大空襲」講演会
「戦後80年体験者が語る和歌山大空襲」講演会

「戦後80年体験者が語る和歌山大空襲」講演会がありました。主催は「和歌山市空襲の体験を記録する会」で、4人の体験話を聴かせてもらいました。

和歌山大空襲は昭和20年7月9日の出来事です。記録によると午後11時58分から午前1時58分までの2時間で、アメリカ軍はB29・108機が約800トンの焼夷弾を落としました。攻撃目標である和歌山城を含む公園前を中心に、約1.2kmの市街地の半分を破壊しました。体験者によると本町周辺は真っ赤に染まり、和歌山城の天守閣は焼け落ちたのでした。市街地が真っ赤になった光景は、紀の川の北側でも目撃されていますし、本日の来場の体験者からは「泉州からも確認できた」と報告がありました。

この日、和歌山市から貴志川町に疎開していた母親が「貴志川から和歌山市の方向を見ると、真っ赤に燃えていたので怖かった」と話していました。当時、貴志川から和歌山市に至る区間に大きな建築物がなかったこともあり、「焼けているのがはっきりと見えた」と言っていました。母親も体験者の一人だったので、もっとたくさん話を聞いておけば良かったと思っています。

本日、4人の体験者の話を聴くことができる機会であり、「次の世代に語り継ぐことが使命」と話していることから参加して体験談を聴かせてもらいました。

「戦後80年体験者が語る和歌山大空襲」講演会

体験者の一人である岩本さんは、「京橋にあった防空壕に入ろうとしたのですが、逃げてきた人がいっぱいだったので入れませんでした。しかしそれが幸いしたのです。防空壕の前に焼夷弾が落とされてその付近は火の海となり、逃げた人たちは命を落としたのです。

私たちは京橋の川に進入し、船をつないでいる杭につかまって一夜を過ごしました。怖くて、怖くてその時は冷たさを感じませんでした。朝になって冷たさを感じるようになり外に出ましたが、そのお陰で助かったのです。母親に連れられて逃げた私たちは、そこを入ることを諦めたので運が良かったのです」と話していました。

また永廣さんは「汀丁公園が避難場所でしたが、私たちは汀丁に行かずに紀の川の方角に向かいました。避難訓練では汀丁に逃げることになっていましたが、本町は火の海でそこに逃げることができなかったからです。7歳だった私は5歳の弟の手を握ってとにかく逃げました。当時はどの家の前にも揚水があり、防空頭巾と防寒着を着た上から水をかぶり、弟と一緒に逃げたのです。火の海だったので水をかぶって逃げたので助かりました。防空頭巾と防寒着を着衣してなければやけどや怪我をしていたと思います。幼い二人が逃げられたのは母親が教えてくれた通りの行動をしたからだと思います」と話してくれました。

実際の和歌山大空襲の体験は言葉以上だったと思います。体験者は全員「世界では今も戦争が起きていますが、どうして殺し合うのか分かりません。あんな体験は二度としたくありませんし、若い人に体験させたら絶対にいけません」と話してくれたように、絶対に戦火は起こしてはいけないことです。

この和歌山大空襲の死者数は、当時の報告がばらばらなので実数は不明です。そこで記録にある数字を列挙します。

  • 和歌山市庶務課事務報告では1,212人
  • 知事から内務省への報告では1,208人
  • 知事から近畿地方総監への報告では1,101人
  • 戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の報告書では1,625人

以上の死者数になっています。つまり1100人以上の方がお亡くなりになった歴史があります。この凄まじい死者数に驚きます。

私は本日体験談を語ってくれた岩本さん、永廣さん、上原さんが「私たちの体験を次の世代に申し送りたい」と話していることを知っています。何度か聞かせてもらいましたが、何度も聞くことが語り継ぐことにつながります。体験していない人が歴史を語るためには、体験者から繰り返し話を聞く以外に方法はありません。本日はそんな機会となりましたこと感謝いたします。この講演会は定員40人のところ110人が参加しました。和歌山大空襲の記憶は、語り継がれる土台ができているように感じます。

その他
  • 夏フェスに関する話し合いを行いました。もう気温は30度を超えているので海の季節が近く感じます。7月から始まる夏フェスも待ち遠しいと聴いています。
  • 「KIYORA和歌山」による「大阪・関西万博」出演実行委員会を行いました。当日までのスケジュールや企画案の説明を行いました。
KIYORA和歌山「大阪・関西万博」出演実行委員会