南紀熊野体験博から25周年を迎えた今年、当時の実行委員会メンバーで構成する「なんくま会」が開催されました。午後4時に地元紙の取材の予定があったので、事前に8人が西牟婁振興局に集まり取材を受けました。当時の幹部だった垣平さんと嶋田さんを中心にして25年前を振り返りました。
当初、和歌山県が博覧会を開催する準備段階として、約20人の若手職員が集められてプロジェクトチームが発足しました。その後、メンバーが増え局となり、実行委員会へと組織が発展していったのです。僕が出向の辞令を受けたのは実行委員会組織になってからだったので、それ以前に準備と企画が進められていたのです。当初、博覧会の名称は決まっていなくて「しらら博」や「熊野ロマン博」などの名称も候補としてあったそうです。しかし囲い込み型の博覧会ではなくオープンエリア型にする企画だったので、熊野古道を中心に据えることが前提でした。ただ当時、熊野古道は今のように知られた存在ではなかったので、熊野博だけでは知名度に欠けるため、紀伊半島で開催することを全国に分かってもらうため「南紀」の名称を入れて「南紀熊野体験博」に決定しました。僕が出向したのは、その頃です。
日本の三大古道は「奥の細道」「中山道」そして「熊野古道」ですが、先の二つの道と比較して全国的な知名度では劣っていました。この熊野古道を世界遺産に持っていくことも目的として博覧会を開催しようとなったのです。
しかしプロジェクトチームが発足したのは世界リゾート博から3年しか経過していなかったため県内部からも「できるのか」などの意見があったそうです。経済産業省が認定するジャパンエキスポを開催するためには約100億円の予算が必要で、和歌山県が1990年代に二回も開催することは財政的にも厳しかったと思います。それでも熊野古道を世界遺産にするため知事が熱意を持ち博覧会からスタートさせたのです。
当時、道で世界遺産に登録されていたのはスペインのサンティアゴの道、ただ一つだけで「道を世界遺産にすることは困難を極めた」プロジェクトだったのです。その仕掛けの一つが博覧会開催であり、サンティアゴの道と熊野古道との姉妹道提携だったのです。
とにかく目的達成のため県庁内から若手職員が集められ、民間企業からも5人が加わり実行委員会がスタートしたのです。そのトップが垣平さんと嶋田さんでした。
取材では知らなかった話が出てきました。それまでのジャパンエキスポは国が主導して開催したものですが、南紀熊野体験博は和歌山県が企画して経済産業省に上申したものであり、それまでの博覧会とは異なる道筋だったのです。また「熊博」の翌年に3つの県でジャパンエキスポが開催されましたが、その後は開催されていません。理由は様々でしょうが、囲い込み型の博覧会を地方が開催する時代ではなくなったこと。時代が求めるオープンエリア型の博覧会を開催しようとしても簡単に実施できないことがあります。
南紀熊野体験博が開催できたのは、垣平さんによると「熊野古道というスーパースター」があったからで、なければ「オープンエリア型の博覧会はできなかった」ということです。
確かに後に世界遺産になる「熊野古道を歩くことが体験型である博覧会に参加していること」というコンセプトは、当時、理解されにくい考え方でした。体験を与えてくれる従来型の博覧会から自らが体験する博覧会への転換でした。
当時の人たちは、バブル崩壊後で時間と不安を持ちながら生活をしていました。東京のルーズソックスを履いた高校生がインタビューで「癒されたい」と答えていたことを垣平さんが話してくれましたが、都会や仕事、必要以上の競争に疲れた人がたくさんいたのです。そんな人達が癒されるのは難しいことではなく、少しだけ生活の場を離れ古来より癒しの地であった熊野古道を歩くことを推奨したのです。博覧会のテーマは「癒す」「充たす」「蘇る」でしたから、熊野古道はこれらの三要素を与えてくれる道だったのです。
但し、当時の熊野古道は今ほどの知名度はなく「熊野古道」だけで人が集められるか不安要素がありました。そこで田辺市と那智勝浦町にシンボルパークを設置して、熊野古道へのゲートウェイ、ナビゲートとしたのです。もし現代のようにデジタル社会であれば、シンボルパークは必要なく、直接、熊野古道や地域イベントそして体験イベントの地を訪れる博覧会に仕上げていたと思います。
博覧会閉幕後、その年の流行語大賞に「熊博」が全国に発信した21世紀の価値「癒し」が選定されました。垣平さんは「嬉しかったなぁ」と感慨深く語ってくれました。あの年の流行語大賞にノミネートされたのは小渕首相の「ブッチホン」、松坂大輔さんの「リベンジ」上原浩治さんの「雑草魂」などがありました。その中の一つとして選定されたのですから「南紀熊野体験博を開催したことは間違いではなかった。そして『癒し』を発信できたことが評価されたので嬉しかった」と伝えてくれました。
また閉幕後、経済産業省にお礼の挨拶に訪れた時「おめでとう」と迎えてくれたそうです。それは日本で初めてのオープンエリア型の博覧会をやり遂げたこと。熊野古道を全国区にしたこと。そしてオープンエリア型の博覧会は他では真似ができないことを称えてのことだったと推測しています。
何よりも素晴らしかったのは「手作りの博覧会だったこと」です。地方自治体が開催する博覧会は、大手広告代理店やイベンターが入りプロデュースしていますが、「熊博」は実行委員会メンバーがやり遂げた博覧会だったのです。だから25年が経ってもメンバーが集まりますし、日常から仲良くやっているのです。確かに、同じ職場で働いた人が集まる機会はないと思います。南紀熊野体験博実行委員会はみんなが同じ体験をした特別な組織であり、絆が保たれていると思います。
時とは不思議なもので、25年も経過すると辛かったことや嫌なことは時間が洗い流してくれています。良い思い出だけを残してくれています。今語る思い出話は良いことばかりで、いつの間にか辛かったことや嫌だったことは消えているどころか、懐かしい良い思い出に変化しています。それが経験になって身体にしみ込んでいるのです。たくさん経験をした方が良いと言われますが、人生はまさにその通りです。25年が経過した今、人と経験が残っていますが、これは買うことのできない宝物です。
垣平さんは81歳、嶋田さんは77歳だと聴きました。当時、垣平さんは56歳。嶋田さんは52歳だったのです。振り返ると、お二人は素晴らしいリーダーだったと思います。
25年の歳月は放っておくと過去のものになってしまいます。同じ経験をした人が集まり、それを語ることで過去ではなく財産になります。県庁内でも南紀熊野体験博が導いた熊野古道を世界遺産にする道のりや、前例のないオープンエリア型の博覧会に挑戦した職員たちの情熱、今も残る地域イベントや体験イベントを創り出した原点であることなど忘れ去られようとしています。
きっと「熊博」を経験した私たちが、準備から企画、運営とその後などを語り継ぐことが県政に歴史を残すことになります。語られないものは忘れ去られていく。語られるものは継承されるのです。間違いなく和歌山県政の一頁を刻んだ南紀熊野体験博ですから、後世に語り継がれることが残された課題です。新聞記事として取り上げてくれることも歴史を刻む一頁です。
25周年を記念して集まった時間は光速で過ぎていきました。幹事を務めてくれた当時の若手職員の皆さんに感謝しています。元気な姿を見せてくれた実行委員会の皆さん、そして素晴らしいリーダーの垣平さんと嶋田さんに感謝しています。
最後に。全員がこう確信しています。「南紀熊野体験博がなければ熊野古道は世界遺産になっていなかった」。つまり「南紀熊野体験博があったから熊野古道は世界遺産になった」のです。このことは自信と確信をもって語ることができます。