元南紀熊野体験博の嶋田正巳さんの「後考記」を書棚から引っ張り出して読みました。この冊子は同博覧会が閉会してから10周年記念に発刊されたもので、後鳥羽上皇の「御幸記」に因んで「後考記」とタイトルをつけたものです。博覧会で上司として一緒に仕事をさせていただいた嶋田さんの性格を知る一人として「ユーモアあふれる嶋田さんらしいネーミングだなぁ」と微笑みながら思っています。
1999年当時はインターネットが普及し始めた時期でした。博覧会のイベント広報にインターネットを使い始めた時期でもあり、まだインターネット情報で集客できる時代ではありませんでした。そのため公式ガイドブックやイベント案内なども媒体を通じてであり、雑誌や新聞への写真提供もポジを提供していました。今、インターネットで同博覧会を検索してみても、情報が少ないのはそのためです。あれだけ現場で汗を流し、メンバーで議論を交わしたのに「電子記録として残っていないのはもったいないなぁ」と思います。
ところで、あの時に県職員の新人として配属された「彼」も今では課長補佐となり、仕事を切り盛りしていますが、時々「熊博」のことを話すことがあります。
「あの頃、部長や課長の立場で仕事をリードしていた偉いさん達は今の僕の年代なんですね。誰もやったことがない体験型博覧会の企画と準備、広報や運営など、良くできたなぁと思います。今の僕に任されたら自信ないですね」と話しています。
僕も同感です。僕は広報出展部の課長補佐で、マスコミや旅行会社への広報と対応、開会後は熊野古道の案内などを行っていました。上司に増井部長と津井課長がいたので安心感がありましたが、とにかく前例のないオープンエリア型の博覧会という誰もやったことのない仕事だったので、伝えること、書くこと、魅力を伝えることが大変でした。関西でも熊野古道は知られていなかったので、熊野古道という山歩きの途中の説明が難しかったことを覚えています。歩くだけにしてはいけないので、古道の説明を話しながら歩くのですが、ポイントとなる王子跡にと到着するまで道中の説明は、実行委員会に配属となってから知り得た知識を総動員して行いました。
当時の局長と副局長は50歳代、部長と課長は40歳代、課長補佐以下は30歳代でしたから、今思うと若いメンバーでよくぞ国が認定する大規模なジャパンエキスポを仕上げられたと思います。「彼」が話したように、もし今「部長として博覧会を担当して欲しい」と言われると自信がありません。当時の部長以上の方々は仕事ができて大きく見えたものです。
当時の西口知事からは「県職員の若手のエースを送り出している」と聴きましたが、若い職員さんも優秀で、現役で残っている方々は部長、局長などの管理職に就いています。
そんな現役バリバリの「彼」らが「当時の管理職は凄かったと思います」と話しているように、とにかく当時の管理職は「凄かった」のです。これは一緒に仕事をした私たちが肌感覚で分かることです。もう25年も前のことです。
今から20年前に熊野古道は世界遺産になり、世界が認めたその価値は細かく説明しなくても理解してもらえています。熊野古道を知らない人が多かった時代の説明とは全く違います。一度、道筋をつけてしまうと後に携わる人の説明は楽になります。当時、全国的には無名に近かった熊野古道に価値を付けて説明することが難しかったのですから、今思うと隔世の感があります。
当時、広報担当として月刊誌などの数えきれないほどの冊子に記事掲載のための原稿を書きました。一体どんな記事内容だったのか冊子が残っていないので分かりませんが、今の知識レベルで読んでみたら「記事のレベルが浅くて恥ずかしい。今、原稿を書いたらもっと熊野古道を描き切れるけれど」と思うに違いありません。
嶋田正巳さんの「後考記」を読んで1999年にタイムスリップして思いました。
- 宮井愛子さんのピアノリサイタルでショパンの作品を楽しむことができました。演奏の2時間は一瞬のように感じるほどでした。
- 夜の時間を利用して「スオミの話をしよう」を鑑賞しました。三谷監督の映画はユーモアがあり楽しめました。