活動報告・レポート
2024年8月22日(木)
高野山
高野山の茶人である梅原さん、恵光院 近藤住職

高野山の茶人である梅原さんを訪ねて、お茶にまつわる卓話とお茶会を行ってもらいました。ゲストに恵光院の近藤住職も呼んでくれていたので、お二人から高野山と抹茶に関する卓話を聴かせてもらいました。

高野山は8つの山に囲まれている盆地にあります。盆地は4kmと6kmの広さがありますが、日本中を探しても山中でこれだけの広さがある盆地はないそうです。弘法大師は当初京の都に寺院を持っていましたが、社会から隔離された場所でなければ修業はできないと感じて高野山の盆地に移住して寺院を開院したそうです。恵光院の歴史は平安時代からなので、弘法大師が高野山を開いた直後から存在する由緒あるお寺で、現在の近藤説秀住職は56代目に当たります。

高野山にインバウンド観光客、特に欧米豪から多いのは次の理由が挙げられます。

  1. 高野山が2004年に世界文化遺産に登録されたこと。それから20年が経過しているので西欧に認知されていること。
  2. ナショナルジオグラフィックで高野山が訪れるべき観光地だと紹介されたこと。
  3. ミシュラン・グリーンガイドで高野山が紹介されたこと。

以上が欧米豪からの観光客が多い理由です。なお、高野山が選ばれているのは神仏集合の宗教都市であり、神仏が同居する考えは欧米豪にはないことから不思議さを感じていることがあります。日本、特に和歌山県では神仏統合の聖地が数多く存在しているので、インバウンド観光客が訪れてくれています。

神仏集合の象徴が高野山の麓の丹生都比売神社で、都から高野山を目指した空海が立ち寄った神社です。この神社で「高野山で開祖するのでお願いします」とお願いをして高野山に向かったと伝えられています。このことから丹生都比売神社に参拝をして高野山に向かうことでご利益があると言われています。

これは神社と寺院が歴史の中で共存している事例であり、神様と仏様を同時に崇拝することは世界では珍しいことだと言われています。この事例などを引き合いにして「日本人は無宗教だ」と世界から言われることがありますが、無宗教ではなく信仰が身近にありすぎるのでそう見られているだけのことです。神様も仏さまも自然にも畏怖を抱き信仰の対象とする民族は極めて稀だと思います。全てのものに神が宿るという考えは日本人の宗教観であり優れた特長だと思います。

そして後半はお茶の文化です。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の種子を栂尾にまき、茶の普及を果たしたのが明恵上人です。今日では、高山寺は日本で初めてお茶が作られた場所として知られています。

高野山の茶人である梅原さん

お茶が普及した理由は、お茶には眠りを覚ます作用があり、当初は薬として普及していたのですが、眠りを覚ます効用があることからお坊さんの修業に適していると考え、お寺から普及させたようです。これが今から約800年前のことです。

時代は下って戦国時代に入ります。織田信長も豊臣秀吉も国取りを目指し領地を広げていきました。戦を続けるためには資金が必要となりますが、領地には限りがあるので功績をあげた武将に配分することに苦慮します。そこでお茶のブランド化を図ることになります。信長や秀吉から与える茶道具に価値をつけてブランド化を図ったのです。戦で功績を挙げた証として主君から茶道具をいただくことがブランドになっていくのです。

主君にすれば領地を与える必要はなくなり、資金の憂いなく戦を仕掛けることができたのです。豊臣秀吉が名付けたお茶が「綾鷹」で、現代でも京都のお茶のブランドになっています。

お茶のブランド化に伴い、茶人も信長や秀吉から重宝されるようになっていきます。お茶席に時間をかけるのは、冷静さと考える時間を取るためだともいわれています。信長や秀吉は気が短かったとされていますが、落ち着きを与えるためにお茶席が用意されたそうです。千利休の茶室「待庵」は待つこと、つまり武将に冷静な時間を授けるための意味だともいわれているようです。茶人は参謀であり、お茶席での会話から主君にヒントを与えること役割もあったそうです。

余談となりますが、「おもてなし」とは、お茶席でお菓子を出す「ものをもって相手を喜ばせる」というお茶の用語から来ているそうです。お菓子というものを提供することが歓待することだそうで、これが「おもてなし」だということです。

本日は高野山とお茶の文化を学ぶ機会となりました。卓話をしてくれた講師の方々に感謝しています。