今日と明日の二日間、福島県の被災地の視察を行いました。初日の今日、浪江町立請戸小学校と大平山などを訪ねました。
まず請戸小学校です。東日本大震災で津波に襲われた波江町立請戸小学校の生徒82名は、全員高台に避難し1人の犠牲者も出しませんでした。海岸から小学校までの距離は約5キロメートル、地震の後、津波が発生してから生徒と教師が2キロメートル先の大平山に逃げる行動を起こしました。大平山は高さ40メートルの小さな山ですが、生徒たちはここを目指して走りました。
町の幹線道路を走って避難行動をしたのですが、大平山の麓に到達した時、野球部の少年が「僕は野球部でここを上ったことがあります。この道を行く方が早く頂上まで上がれます」と先生に呼びかけたので、先生はこの生徒の言った道を行く選択をしました。この獣道を走ることで、約8分で山頂にたどり着くことができたのです。もし町の幹線道路を走って避難していたら、約20分はかかっていたと言われています。この時のとっさの判断が全員の命を救ったのです。
この避難行動ができたのはみっつの理由があります。
ひとつは、日頃から小学校では避難訓練を実施していたこと。
二つ目は、地域の皆さんがお互いの顔を知り、コミュニケーションが図れていたこと。
そして、津波発生に備えて避難行動マップを作成していたことです。
非常時には、日頃行っていない行動ができることはありませんから、日常の訓練、意識づけ、避難行動に向けた備えが生徒の命を守ったともいえます。生徒と教師全員が避難行動を起こして助かった奇跡の小学校として、請戸小学校校舎は津波のメモリアルとも言える姿で保存されています。
しかし、現在の浪江町は人口約2,200人に減少しています。震災前は21,500人が暮らしていた町ですから、13年間で10分の1の人口になっています。
浪江町と同様に、近接する双葉町の人口は現在100人にまで減少しています。地元に戻った人が40名、仕事で双葉町に来ている人が60名なので、ほとんどの方が町外に出て行って戻ってきていない状況です。これが被災地の現状です。復興を進めていますが暮らしていた人が戻ってこない現実がここにあります。
さて、請戸小学校は震災の傷跡を残す建物として公開されています。この小学校の周囲には家が並んでいたのですが、現在は1軒の家屋もありません。つまり住んでいる人がいなくなっているのです。1つの集落が完全に消えてしまった。これが津波の怖さでもあり、災害の怖さでもあります。家屋のあった場所は雑草で覆われ当時の人が生活していた面影はありません。この大災害の教訓から学ぶことは、平時から地域として災害対策や避難計画を立てておくこと。そして故郷への愛着と誇りを持てるまちづくりを推進しておくことだと思います。
続いて、請戸小学校の生徒と先生が逃げた大平山の慰霊碑を訪れました。
幸い生徒たちは全員助かりましたが、この地域の方々が100名以上お亡くなりになっています。現在、浪江町が大平山の麓にお墓を建てて弔っています。
また、生徒たちが山頂に逃げた獣道ですが、現在は草が茂って侵入路がわからなくなっています。人が住んでいないため、この辺りも雑草で荒れている状態です。
この大平山から請戸小学校の方面を眺めると約2キロなのですが、津波が発生した直後の不安な心理状態の小学生にとって、相当長い距離だっただろうなと感じられます。
そして小学校だけがポツンと立っている不思議な光景がありました。かつて小学校の周辺には家屋が立ち並び生活の姿があったそうですが、今は空き地となり雑草が茂っている状況です。津波の恐ろしさを今に残している現在の日常の光景です。