活動報告・レポート
2024年7月31日(水)
紀伊半島三県議会交流会議
紀伊半島三県議会交流会議

三重県明和町で開催された第18回「紀伊半島三県議会交流会議」に出席しました。奈良県、三重県議会、そして和歌山県議会から派遣された議員が出席して紀伊半島の三県にまたがる課題についての議論を交わしました。

議題1.三県の防災力向上に資する紀伊半島アンカールートの早期整備について
  • 整備の加速化、一日も早い整備の実現に必要な予算の確保や、本年度末に期限を迎える緊急浚渫推進事業債の延長・拡充、国土強靭化実施中期計画の令和6年度内早期策定を三県議会が共同で国に対して要望をしていくこと。
  • 各県議会が執行機関の関連事業についての提言や監視・評価を一層充実させ、今後もこの場で情報を共有していくこと。
議題2.半島地域における防災・減災、国土強靭化について
  • 国土強靭化実施中期計画の令和6年度内の早期策定や、半島振興法の延長など諸法令の整備、必要な予算・財源の例年以上の確保等を三県議会が共同で国に対して要望していくこと。
  • 能登半島地震を踏まえた対策の見直しについて、各県議会が執行機関への提言や政策監視・評価を一層充実させ、現行の相互応援協定も踏まえ、今後この場で情報を共有していくこと。
  • 奈良県における広域防災拠点の整備に向けた検討の今後のとりまとめ結果も踏まえ、さらに「半島防災」という新たな視点も加え、引き続き、紀伊半島三県災害等相互応援に関する協定に基づき、広域防災体制等の充実に向け、三県議会が協力・連携して取り組んでいくこと。
「斎王」と「斎宮」について説明

以上の課題について意見を出し合い合意したので、三重県議会議長が「交流会議まとめ」として報告しました。このまとめた結果は国に対して意見提起していく予定であり、また来年度の開催県を奈良県と決定しました。

また会場となった斎宮歴史博物館で「斎王」と「斎宮」について説明を聞かせてもらいました。斎王と斎宮の存在を知る機会となり、この説明を聞いただけでも出席して良かったと思いました。

「斎王」に関しての説明は明和町が詳しいので以下に記します。

斎王は天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674年)、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。

以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。

制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。

また「斎宮」については斎宮歴史博物館の資料から以下の通り記します。

斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。

古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。

制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。

「斎王」と「斎宮」について説明 「斎王」と「斎宮」について説明

ご存じの通り伊勢神宮には内宮と外宮がありますが、明和町ではここにお参りする前に復元した斎宮に立ち寄ってもらう観光を企画しています。斎宮から外宮、内宮へ続く参拝ルートを観光周遊にすることを目指しています。

斎宮歴史博物館

この地に刻まれている歴史を生かしたまちづくりを目指す熱意を感じました。斎宮歴史博物館の最寄り駅は「近鉄斎宮駅」ですから、近鉄はこの地の歴史を護り大切にしている姿勢がうかがえます。