気温33度の下、城下町ウォーク「八代将軍吉宗の紀州ゆかりの地巡り」に参加しました。今朝から熱中症が起きそうな暑さでしたが、南海和歌山市駅前に集合して、近隣の徳川吉宗ゆかりの地を巡りました。本日の案内は山本均さんで、前回の太田城ウォークに続いての語りを担当してくれました。山本さんの案内はとても分かりやすくて丁寧に語ってくれるのが特長です。炎天下の下でしたが、ゆっくりとしたペースで木蔭に入って語ってくれるなど配慮してくれたので楽しく参加できました。と言っても暑さは格別でしたが。
さて吉宗は二代紀州徳川家藩主である光貞の四男として吹上で誕生しました。通常、藩主の子どもは城内で生まれるのですが、母親である「お由利の方」は光貞の風呂係だったことから城外の吹上で誕生したようです。四男だったので家臣「加納五郎左衛門」に育てられ、伝法橋付近で自由に成長したそうです。つまり四男でもあり、紀州徳川家の藩主になれることはなかったのです。
しかしその後、運命は好転します。1705年、5月18日に長男の三代藩主綱教が41歳で死去、8月8日に父親である光貞が死去、次いで9月8日に三男で四代藩主の頼職が26歳で死去します。次男は22歳の時に亡くなっていたので、四男である吉宗が五代目の紀州藩主となったのです。半年の内に3人が亡くなるという事態になったことから、なることはないと思っていた藩主になるのですから運命とは分からないものです。
藩主となってから、吉宗は紀州藩の藩財政再建に乗り出しました。質素倹約で服装や仏具などは新調しましたが、その他のものは従来通りで何も変わることはなかったそうです。
新田の開発による農業改革を行い、紀州藩を豊かにしました。
海南市出身の井沢弥惣兵衛や橋本市出身の大畑才蔵を登用し、今の紀の川市から和歌山市に至る藤崎井の建設で790町歩を水田化、橋本市高野口から岩出市までの1070町歩に通水、海南市の亀池の築造で127町歩に通水など現在につながる農地改革を行いました。
そして寄合町付近に学問所「講釈所」を開設し、藩の教育に力を注ぎました。参考までに現在残る寄合橋の名前は、江戸時代、この橋は武家と町民の屋敷を結ぶ橋であり、「講釈所」に向かう武家と町民が行き交う賑やかな公道であり、人が寄り合うことから寄合橋と命名されたそうです。この橋には特徴があり、欄干の上に灯篭の後があります。欄干に灯篭が灯り夜間でも明るかった名残です。
参考までに欄干に灯篭がある橋は寄合橋と京橋、北島橋の三か所で、紀州藩が重要な橋を架けた名残があり珍しい歴史の跡です。
寄合橋の欄干をよく見てみると、確かに灯篭を設置していた形跡がありました。江戸時代の名残と、人々が寄り合う賑わいのある風景が浮かびました。
また寄合橋付近には川に降りていく歩道があり、この川は和歌山城のお堀の跡だそうです。現在、かつての和歌山城のこの付近のお堀は埋められて道路になっていますが、この元お堀の道路の交差点付近は和歌山市の所有となっているので公共施設が多いのです。お堀を生かして地下に駐車場があるのが特長です。和歌山市教育会館や、和歌山商工会議所、あいあいセンターなどの地下駐車場は、その名残になっています。当時のまちづくりは地形を生かしたものになっているのです。
また城内の武家住居と町民の暮らしている土地との間には段差があり、武家屋敷のあった土地の方が高くなっています。川に降りた歩道から両方を眺めると良く分かりました。和歌山市の城下町の特長が随所に残っています。歩くことで新しい発見や和歌山市なのに初めて見る光景がありました。まちなかウォークの楽しさを感じました。ただ、とても暑かったウォークになりました。
ウォークの途中、和歌山城で休憩時間を取りました。お城を見上げたところ「和歌山城の壁が汚れています。掃除をして白くする方が観光客にとって良いのではないでしょう。但し、元々豊臣秀吉が築城したお城で、その時の壁は黒かったはずですから白くするのはどうかなって思いますが、和歌山城を再建した時には壁は白かったはずなので、当時の白色に戻す方が良いのかなとも思います。私が思うには、来年の大河ドラマの主人公は豊臣秀長ですから、ゆかりのお城である和歌山城に大勢の観光客が来るのではないでしょうか。観光客に和歌山城は汚れていると思われると印象は良くないと思います」と意見をいただきました。