プレジデントオンラインで、復元されたお城の中で和歌山城の記事がありました。記事では復元されたお城の中で高い水準で復元されていて、再現度の順位で一位の評価がされています。和歌山市民にとって嬉しい評価であり、和歌山城の良さの一つとして再現度が高いことを知りました。
複数の紀州語り部会員さんに尋ねたところ「当時、木造ではなくコンクリートで建築した理由は知っていました」という人もいましたが、大半は「お城を木造ではなくコンクリートで建築した理由は知りませんでした。記事を読んで勉強になりました」という意見で締められました。
以下、記事の中で和歌山城の評価に関する部分を引用します。出典は「プレジデントオンライン」(令和6年3月2日配信)
復元されたお城=価値がないは間違い…城巡りをする人に伝えたい「鉄筋コンクリ造の名城」ランキング
太平洋戦争末期の空襲により、7つの城の天守が失われた。歴史評論家で城マニアの香原斗志さんは「そのうちの6つの城は、戦後すぐに再建された。すべて鉄筋コンクリート造ながら、旧観をほぼ忠実に再現している城もある」という――。
7月9日には、紀州徳川家の居城だった和歌山城(和歌山県和歌山市)の天守が全焼した。江戸末期の再建ながら、江戸初期の優美な様式をとどめる気品ある天守だった。
昭和33年(1958)10月、和歌山城天守が完成した。設計したのは東京工業大学教授だった藤岡通夫氏で、残されていた平面図のほか、旧天守を設計した水島家に残っていた立面図や断面図、藤岡氏自身が焼失前の天守の細部を撮影した大量の写真などを、徹底的に解析したという。
この天守は築造技術が未熟な古い石垣上に建てられ、1階平面がかなりいびつな不等辺四角形だ。しかし、二重目から上はゆがみが矯正され、かなり複雑な造形である。
そこで藤岡氏は、先に木造建築の結成図を作成。後年、「鉄筋コンクリート造の建物を最初から設計すると、木造としての制約を忘れて設計しかねない。(中略)面倒ではあったがまず木造として建物を設計し、それを下敷にして中身を鉄筋コンクリートに置き変える方式をとることにした」と回想している(『城と城下町』)。
こうしてていねいな作業が重ねられた結果、外観の再現度はかなり高い。しかし、和歌山城のような高い水準で外観が「復元」されることは、多くはなかった。
これら6棟の外観復元天守の再現度に順位をつけると、竣工された時点では、以下のとおりだった。1位が和歌山城、2位が広島城、3位が名古屋城、4位が岡山城、5位が大垣城、6位が福山城。
しかし、近年、まず大垣城の外観が変更され、最上階の窓が戦前と同じ形状になり、豪華な装飾も取り除かれた。
そして令和4年(2022)には、福山城の外観も戦前に近い姿になった。北側には鉄板が張られ、真っ黒い壁面が戻った。真っ白に塗られた窓も銅板を巻いたように見えるようになった。最上階の色彩や窓の位置などもオリジナルに近づけられた。
歓迎すべきことだが、ただし完璧とまではいえない。鉄板こそ本物が張られているが、銅板が張られた窓枠や格子はアルミで再現され、最上階に露出した木部は、コンクリートを茶色く塗ってそれらしく見せている。
これらの変更を踏まえて順位をつけ直せば、1位が和歌山城、2位が広島城、3位が福山城、4位が大垣城、5位が名古屋城、6位が岡山城、といったところだろうか。
如何でしょうか。第二次大戦後に復元されている和歌山城ですが、この評価を読んで価値観が変わりました。後の時代がその時代のことを知らずに評論することは簡単ですが、どんなことでもその時代のベストの選択をしていたことが多いのです。和歌山城をコンクリートで復元したことにも理由があったのです。コンクリートだから駄目だと、後世の人が当時の人のことを知らずに判断することは良くないと思いました。
プレジデントオンラインの配信は、和歌山城の見方さえ変わる記事と評価です。