伊太祁曽神社の紀元祭に参加しました。建国記念の日をお祝いする式典は穏やかで、この国で生活できていることの幸せを感じました。建国記念の日の由来は神武天皇が初代天皇に即位した日が起源になっています。旧暦の紀元前660年1月1日に即位したと伝えられているので、現代の暦に直すと2月11日になるようです。そのため今日の日が建国を記念する日と定まったのです。
実に日本国は2684年の歴史を持つ世界一の国なのです。一つの国家が滅亡することなく2684年も存続していることは世界史上で輝くことであり、私達が誇るべき国の歴史だと思います。
さて本日は、建国の歴史と和歌山県の偉人である「陸奥宗光伯がわが国に遺したもの」と題した記念講演を聴かせてもらいました。
記念講演は「紀州 宗光龍馬会」の臼井会長が担当してくれました。神武天皇の即位の日が建国記念の日ですが、陸奥宗光外務大臣がイギリスとの間で交わされていた不平等条約を改正した130年前が近代国家としてスタートした年になるわけです。つまりわが国の建国に係る講演会の意味合いもあり、国家について考える契機となりました。
以下、主観を交えて記します。
江戸時代の紀州は、現代の三重県までが領地であり広大な土地と石高、文化と人材を有していました。松坂屋や三井家なども紀州が輩出しているように、紀州は大変裕福で産業や教育も熱心で盛んだったようです。
その中心人物の一人が紀州藩の伊達宗広で、陸奥宗光の父親にあたる方です。しかし紀州藩の内紛に巻き込まれた伊達宗広は田辺に蟄居を命ぜられます。9歳の幼い陸奥宗光も父親と離れ高野口まで十里払いとなり、15歳まで高野口と高野山で暮らすことになります。
陸奥宗光伯は無量光院で才能を認められたので、周囲の助けがあり15歳の時に江戸に行くことになります。一方父親は蟄居が解けた後、和歌山市南太田辺りに戻って半年間、生活した後、京都に向かいます。学習院で若い人の教育にあたることになったのです。
仏学、国学で有名になった伊達宗広のところには、才能のある若い人達が集まり出しました。当時は優秀な先生があるところに、生徒として学びに来ることが通例だったのです。
京都の伊達宗広のところには、木戸孝允や坂本龍馬も学びに来るようになりました。
一方、江戸で勉学に励んでいた宗光も父親のいる京都に戻ることがあり、そこで坂本龍馬に出会っているのです。ここで、後に薩長同盟から大政奉還、そして明治時代の不平等条約改正につながる人物が出会っていたのです。歴史の織り成す妙であり、幕末の奇跡ともいえる出会いです。
龍馬と宗光は志を抱き、幕府の重鎮であった勝海舟の元、海軍操練所で船の操縦などの訓練をすることになります。神戸海軍操練所での訓練はわずか1年でしたが、坂本龍馬は長崎県を拠点として亀山社中から海援隊を結成します。海援隊に参加した陸奥宗光は龍馬から考え方と実践を通じてこの国のあり方を学んでいきます。
龍馬が描いた新政府綱領八策は、明治時代に入って弟分であった宗光が実現させていくことになるのです。
ところで黒船がわが国にやってきたこの時代、ロシアは南下戦略を取り、わが国に迫っていました。ロシアはどうしてもアジアの不凍港を確保したかったので南下していたのです。
この国際情勢を知っていた坂本龍馬は、大政奉還の後は、きっと国防のため蝦夷の地に向かおうとしていたと思います。ロシアの侵入を許さない。得ていた情報から政府に入ることなく、世界の海援隊を目指すのでもなく、蝦夷の地でロシアの脅威からわが国を護ろうと考えていたと思います。
陸奥宗光外務大臣が剃刀大臣と呼ばれたのは、龍馬から国際情勢を把握することが大事だと教えられていたことに起因していると思います。当時の列強の動きとしてアジアの国々が植民地として支配されていったことなど、列強各国の内部情報を掴んでいたと考えなければ、最初に覇権国であるイギリスと不平等条約改正のための交渉で「勝算がある」と思わなかったでしょう。
イギリスにとっても、ロシアが中東から南下していくことを危惧していたと思いますから、日本と同盟関係になることはロシアの南下を防ぐことになると考えて「日英通商航海条約」を締結したに違いありません。
このイギリスとの間の不平等条約改正は、陸奥宗光外務大臣の情報力と交渉力によるもので明治政府の誰も成し得なかった悲願を達成したのです。列強から一等国と認められて、ここに近代国家、日本が誕生したのです。
以上の経緯から、明治時代に陸奥宗光伯が遺してくれたものの大きさを感じてもらえたと思います。
世界で最も長い歴史を持つ日本国を誇りに思い、この先も日本人が欧米やその他の国と対等な国でいられることを考えなければなりません。これが現代人に課せられた使命だと思います。
- 冬の間に伸びていた髪の毛のカットに行ってきました。同級生と建国記念の日と平和を考えました。
- お二人の通夜式に参列させていただきました。どちらの喪主さんとも式場で会話を交わすことができました。たくさんの出来事があり、一人の喪主さんから「片桐さん、突然のことなので信じられないし、どうすれば良いか分かりません。落ち着いたら聞いて下さい」と話がありました。もう一人の喪主さんからも「母親は片桐さんのことを、よく話していました。何度も聴いています」と話してくれました。心からご冥福をお祈りしています。