親しくしてもらっている経営者を訪ねて懇談の時間を取ってもらいました。冒頭、最近の会社の経営状況を聞かせてもらった後、陸奥宗光外務大臣に係る説明を聴いてくれました。
社長と懇談している中で、この故郷の偉人の功績を説明したところ、「私は歴史に疎いので陸奥宗光さんのことは存じません。少し教えて下さい」との依頼があり、故郷の偉人の説明をすることになりました。
そこで陸奥宗光外務大臣の幼少期から勝海舟や坂本龍馬との出会いと行動、そして明治政府における功績などを伝えました。特に父である伊達宗広が徳川家の派閥争いに巻き込まれた結果、父宗広は紀伊田辺に、宗光は橋本市に追放されたことも説明しました。幼少の宗光は今も橋本市に残っている十里松のあるところまで追放され、そこから高野山に行ったことも伝えました。
高野山では宗光の才能を埋もれさせるのはもったいないと思った周囲の大人たちが「宗光を江戸に行かせよう」と考え、江戸にあった高野山ゆかりのお寺に連れて行ったのです。そこから宗光はさらに勉学に励むようになり、勝海舟や坂本龍馬と縁を結ぶことになるのです。
また父である伊達宗広も京都の学習院の先生となり、ここで坂本龍馬との出会いがあったことから、ご縁はさらに強くつながっていったのです。
また外務大臣としての最大の功績は不平等条約を改正したことです。江戸時代に欧米列強と締結していた不平等条約を改正することは、明治政府の最大の悲願でした。関税自主権がないことから不利な貿易を強いられていましたし、領事裁判権がないことから外国人が日本で犯罪を行ったとしても日本で裁判ができないなど近代国家としての機能が持てない状況でした。
そこで陸奥宗光外務大臣は、当時の覇権国であるイギリスとの間で不平等条約を改正する動きを見せます。そして「日英通商航海条約」を締結することに至ったのです。この不平等条約の改正がなされたことから、欧米露列強、帝国主義国家15ヶ国と交わされていた不平等条約をすべて改正することにつながり、これらの国々との対等関係樹立を大きく前進させて、わが国を列強による植民地支配政策から救ったのです。不平等条約改正を機にしてようやく、明治政府は近代国家として歩み始めることになったのです。
陸奥宗光外務大臣の幼少期から不平等条約改正までの説明をしている時、社長は目を閉じるように聴いてくれていたので、「歴史には興味がないと言っていたので、もしかしたら関心がないのかも」と思いましたが、大方の説明を終えた時、「日本にはこんな素晴らしい偉人がいたのですね。しかも和歌山県出身ではないですか。これまでその功績を知らなったことを恥ずかしく思います。今回、片桐さんが説明してくれたので故郷の偉人に関心を持つことができました。
これから秘書と調整しますが、私と従業員にも説明する機会を設けてください。もっと深く知りたくなりました」と話してくれました。
この感想の通り、陸奥宗光伯の生き方を説明している間、目を閉じながら、そして真剣な表情でずっと聴いてくれたのです。僕の感覚としては、仕事で物事を決断する場面が訪れたような表情で聴いてくれていたように思います。
この説明がきっかけで、同社で陸奥宗光外務大臣に関する説明会を開催してくれることになったことに感謝しています。