活動報告・レポート
2023年11月20日(月)
ジョン万次郎とホイットフィールド船長

ジョン万次郎と当時、万次郎を救助した船長であるホイットフィールドを称える団体から役員が来県してくれたので会議を行いました。会議の内容は、令和6年夏に同団体の「和歌山大会2024」を開催する計画案を示してくれたものです。

このジョン万次郎の精神を受け継ぐ大会は1991年に第1回大会として「東京・京都大会」が開催され、その後毎年、日米の都市で開催され、既に32回の大会を数えています。

参考までに第2回大会が「マサチューセッツ・モンタナ・ワイオミング大会」で、その後は日本とアメリカの都市で隔年開催しています。2023年は「オハイオ大会」で、2024年が和歌山大会の予定なのです。

第2回大会がマサチューセッツで開催されたのは、ホイットフィールド船長の生まれた都市だからです。

さて2024年夏にジョン万次郎とホイットフィールド船長の出会いに端を発した「日米の交流で世界平和を目指す」大会が和歌山県で開催されることが決定したことを伝えてくれたのは奇跡です。説明を聞いた後、僕から、令和6年、2024年夏に和歌山県で「龍馬World in 和歌山大会」を開催します。この大会は坂本龍馬と陸奥宗光外務大臣の功績と志を共有して、維新の志士たちの志を引き継いで世界平和を願う大会なのです。幕末に活躍したジョン万次郎と坂本龍馬、そして新政府で龍馬の意志を引き継いだ陸奥宗光外務大臣の三人の偉人を称える大会が和歌山県で開催することになったのは、奇跡のような歴史の巡りあわせです。

幕末の偉人の世界大会と全国大会を同じ時期に和歌山県で開催するなんて、やりたくてもできないことです。歴史が導いてくれた奇跡だと思いますが、和歌山県から日本の心、和魂を発信すべきだと後押しさせているようです。

令和6年の夏、和歌山県でジョン万次郎と坂本龍馬、そして陸奥宗光外務大臣の関係者が同時期に和歌山県に集まることになります。ジョン万次郎とホイットフィールド船長、そしてペリー提督の子孫が和歌山県に来てくれるのです。そこに藩士坂本家十代目も来県してくれますから、今から顔合わせの瞬間が楽しみです。

歴史が結んだご縁でジョン万次郎とホイットフィールド船長の子孫は、その後もつきあいが継続しているようです。そこにペリー提督との交流もあったようで、三人の子息の交流が続いていると聞きました。

当時のアメリカは、ジョン万次郎が優秀であったことから日本に帰国したことでアメリカの情報を正確に伝えていると判断していたようです。そこで太平洋の入り口として日本に平和的交流を求めてペリー提督がやってきたのです。アメリカ軍艦の燃料補給、食料と飲料水の供給を幕府に求めようとしたのです。

ただ開国はならなかったため、ペリー提督は50ドルで「父島を購入して太平洋の西側の拠点にした」と聞きました。

また第二次世界大戦の時も、アメリカ政府はジョン万次郎家のことを気にかけていたことを教えてくれました。アメリカは積極的に日本と開戦したいと思っていなかったこともあるようです。国と関係なく人と人がご縁を結ぶことは、友好関係につながることを示してくれています。ジョン万次郎とホイットフィールド船長の絆から、平和とは国に関係なく人と人が交流し合うことで築かれることと思いました。

国を超えて人がつながることが平和につながることのメッセージを、和歌山大会で発信してくれると思います。

そして今日の出会いがご縁となり「龍馬World in 和歌山」大会の案内をしたところ、時間の合間を見て会場に来てくれることとなりました。ここにジョン万次郎とホイットフィールド船長、そしてペリー提督の子孫も来てくれることになりました。来年の両大会は、歴史に残る凄い大会になりそうです。

このジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情が築いた「草の根交流」の原点について以下に引用して紹介します。

1841年、遭難して太平洋の孤島に漂着した5人の日本人漁師が、アメリカの捕鯨船によって助けられました。その中に、万次郎という14歳の少年がいました。聡明で気立てのよい万次郎は、すぐにアメリカ人の乗組員たちの間で人気者になりました。

万次郎は彼らから「ジョン・マン」というニックネームをもらい、彼らと一緒にマサチューセッツ州のフェアヘイブンに渡り、アメリカの教育を受けました。万次郎は捕鯨船の船長だったウィリアム・H・ホイットフィールド船長に世話をしてもらいながら、英語や科学や航海術を学んだだけでなく、自由、民主主義、寛容の精神等、アメリカの文化・価値観を学びました。

当時、日本は徳川幕府の政権下で鎖国体制を敷いており、国外へ出ることは死刑に値する重罪でした。しかし万次郎は、ホイットフィールド船長やフェアヘイブンでの生活を通して享受したアメリカの文明と精神を日本に伝えたい、という熱い思いから、10年間のアメリカ生活の後、日本への帰国を決意しました。

万次郎が帰国して間もなく、ペリー提督が来航し開国を要求、鎖国時代は終焉を迎えました。この時、万次郎は、日本の開国及びその後のアメリカの技術や文化の紹介に重要な役割を果たしました。

175年以上経った今なお、ジョン万次郎とホイットフィールド船長の友情は、その子孫の代まで引き継がれています。