「龍馬World in 四万十」大会の後工程であるエクスカーションに参加しました。参加コースは「樋口真吉」を訪ねるものでした。
土佐藩の樋口真吉は龍馬に影響を与えた人物だとされています。特に有名なのは「1867年に龍馬が望月清平宛に出した手紙」で「近江屋に危険が迫っているので、樋口真吉に対して隠家を紹介してくれるように依頼」していることです。
このことは「暗殺一ヶ月前の手紙」として伝えられていて、高知県の「樋口真吉顕彰会」が次のように紹介してくれています。
坂本龍馬が樋口真吉に書いた最後の手紙
「拝啓。寓居を京で探してみましたが、いい所が見つかりません。
昨夜は薩摩の吉井幸輔から伝言があり、『土佐藩邸に入れないようだが、それなら薩摩藩邸に入ってはどうか』といいます。しかし、脱藩の過去がある私は土佐藩邸には入れません。かといって薩摩の世話になるのも不自由だし、土佐藩に対しても『いやみ』となるでしょう。襲われた時は仲間とともに戦ったうえで土佐藩邸に入ろうと決心しています。また、清平様は昨日も私の宿を探してくれていましたが、土佐藩邸近くの寺か松山藩の別屋敷を樋口真吉に斡旋してもらえるならば、たいへん幸せです。
この件は、あなたのみに申し上げることですから、私の事情を樋口真吉や他の藩邸内の面々にお伝えくだされば、なおありがたいことです。よろしく」。
この手紙の中で龍馬は、土佐藩同志・望月清平に対して「樋口真吉に頼んで新しい隠れ家を探してほしい」と依頼しているのでした。
エクスカーションで訪ねた四万十市郷土博物館の二階には「樋口真吉」の企画展として資料が展示されていました。企画展は「坂本龍馬、樋口真吉と出会う」と題した企画展で、今回の全国大会に合わせて開催されたものだと思います。
四万十市が龍馬会に協力して企画展を開催していることは市の活性化と盛り上げを図るための取り組みとして素晴らしいことであり、館内での説明を聞いて龍馬と共に樋口真吉を故郷の偉人として称えていることが分かりました。
「龍馬は樋口真吉を頼って手紙を書いています。樋口真吉は中村の誇りです」と熱意で語ってくれたことが印象に残っています。
企画展での説明の後は、生家跡と顕彰碑も案内してくれました。全ての場所での説明は熱意に溢れていて、その熱意が伝導してきたように感じました。故郷以外の人には知られていない樋口真吉ですが、龍馬との関りを語ってくれたこともあり、その凄さが伝わってきました。やはり故郷の偉人のことは地元の人が語る必要があると感じました。地元の人が故郷の偉人を語らなければ、県外の人は誰も語ってくれません。四万十市、中村出身の偉人のことを知り、もっと知りたくなっているのは今日、熱心に案内してくれたからです。熱意を込めた話は相手に伝わるものです。
続いて四万十川の堤防を案内してもらいました。この堤防は若い頃の龍馬が棟梁となり、堤防の一部を築いた跡です。
「竜馬が18歳のとき、四万十川の堤防工事を手伝うことになった。工事を10区ほどに分け、竜馬はその一区の長を担当した。ほかの区では人夫が怠けもののため工事が捗らないのだが、竜馬の区はばかに早く進む。普請奉行の池田虎之進が見に来ると、竜馬はいつも松の木の下で膝(ひざ)を抱えて居眠り」をしていたのです。
訪ねた四万十川の堤防には、この「竜馬がゆく」エピソードの看板が掲示されていました。
この看板設置が許可されたのは「文学碑」として許可されたと説明してくれました。史実ではないと思われるものですが、司馬遼太郎が描いたエピソードなので「文学碑」として許可したと聞きました。四万十市の度量を垣間見ることができる話でした。故郷の偉人の功績は史実かどうか分からなくても司馬遼太郎によって描かれていることに価値がある。そんな価値を認めた「文学碑」なのです。ここに観光客が訪れていることから設置したことは正解だと思います。
樋口真吉と坂本龍馬を巡るエクスカーションに参加して四万十市が歴史と故郷の偉人を大事にしていること、観光に生かしていることを感じました。
四万十市で開催された全国大会に参加したことで、来年の和歌山大会に向かう気持ちが更に高まってきました。