勝海舟と坂本龍馬が紀州に入ったとき「加太まで来た」話を聴かせてもらいました。ロシアの軍艦「ディアナ号」が大阪湾に侵入した事件がペリー来航よりも早い時期の黒船の来襲でした。
時は安政元年、ロシアの使節プチャーチンが「ディアナ号」で大阪湾に侵入します。その目的は、幕府に対して「和親通商条約締結」を求めるもので、大阪湾に入って天保山の沖合に停泊したのです。
幕府は、ロシアの軍艦がいとも簡単に大阪湾に侵入したことに驚き、大阪湾を防衛するために淡路島と友ケ島に砲台を作るように命じました。そこで勝海舟が砲台検分のため紀州入りしたのです。
加太観光協会の方から「勝海舟は加太を訪れていますが、そのことは記録として残っています」と教えてくれました。
文久二年正月七日 因州候、乗船、紀の加田に到る。友ケ島へ鯨船にて到り上陸、砲台一見。夕刻、同船にて加田の朝陽船に帰る。これはかねて御船、此島近傍へ迎えとして来るべき約の処、延刻。
中途にて乗船の積りなりしに、海路表裏し、中途にて出逢わず、終に夜に入り暗黒如何とも為すべからず。
加田港に到り、五ッ時過ぎに上陸、淡島の社中に入り、飢えを凌ぐ。夜九ッ時、朝陽船、友ケ島を一周し、再び加田港前に帰る。直ちに乗船。
勝海舟は砲台および友ケ島防禦の件で加太を何度も訪れているようです。
安政2年(1855)2月23日頃から30日頃にかけて、勘定奉行 石河政平(従者55人)および目付 大久保忠寛(従者33人)に勝海舟(従者6人)が随行し、伊勢、大坂湾の海岸巡視を行いますが、岸和田を訪れた後、加太を来訪しているようです。
また幸前家文書では次のような記録があるようです。
- 石河土佐守(御勘定奉行)従者含めて56人、宿「柳屋善助」「網干屋吉二郎」「北川屋佐兵工」
- 大久保右近将監(御目付)従者含めて34人、宿「利光平兵衛」「大坂屋平次郎」
- 勝麟太郎(奥田主馬支配 小普請組)従者含めて7人、宿「魚屋彦太郎」
と記されているようです。
しかしこの「魚屋彦太郎」邸の跡地は判明していないようです。
話は続きます。「この時の巡見により勝海舟は、摂海防衛には加太・友ケ島は重要地点であると評し、江戸湾入口と対比して摂海入回は加太が浦賀と同じような価値のある場所と判断しています。また、加太で軍艦の造船所候補地とも考え、浦賀奉行に準じる加太奉行を設置し、幕府の直轄領にすべきであると主張しています」と伝えてくれました。
和歌山県で「龍馬World in和歌山」を開催するのであれば「勝海舟と共に坂本龍馬が訪れた加太は外せないと思います」と話してくれました。
そして「お客さんに加太で滞在してもらって龍馬会役員に酒を飲みながら龍馬を語ってもらう企画は良いと思います。そして龍馬も眺めた加太の夕日を龍馬会会員で眺める企画は如何でしょうか」とのアイデアを提案してくれました。
「龍馬が見た加太の夕日」を体験する宿泊は、和歌山県にお越しいただく龍馬ファンに向けてのとても良い企画だと思います。
これから企画を詳細に詰めていきますが、和歌山市観光協会役員さんからの史料とアイデアも参考にしながら、この全国大会に向き合いたいと考えています。