活動報告・レポート
2023年9月16日(土)
和歌山大空襲の話
和歌山大空襲の話

今年90歳になった和歌山市在住の上原ハツさんとは今年7月に知り合いになり、それからおつきあいをさせてもらっています。紹介されたきっかけは「和歌山大空襲の体験者でその体験を中学校の授業で話している人がいます」との理由で和歌山大空襲を体験した知人から紹介を受けたものです。

地元の中学校の授業で毎年、和歌山大空襲体験を話していることに関心を持ち「戦争の体験を語り継がなければ、語れる人がいなくなる」と思ったので、昨年に引き続いて「うたかたコンサート」を開催しようと主宰のFプロジェクトの皆さんと意見が合致したのです。

母親の生前、和歌山市から貴志川に疎開した話は何度も聞いていました。しかし子どもだったことから、戦争の話はおもしろいものではなかったので真剣に聞くこともなく、メモを取ることもなく、聞かせてくれた体験談の記憶は薄らいでいます。

ただ貴志川から和歌山市の方向を見ると「空が真っ赤に燃え上がり恐ろしかった」と言っていました。当時、貴志川と和歌山市の間に高い建物がなく、疎開先からでも燃え上がる赤い色がはっきりと見えたそうです。

鉄道や車のなかった時代ですから、疎開先には歩いて行ったのだと思います。今思うと、戦火が迫る中、荷物を持って歩いて移動することは「どれだけ不安だったのだろうか。もっとしっかりと話を聴いておけばよかった」と思うばかりです。

疎開先は迎え入れてくれたのですが、もちろん自宅ではないので大変な苦労をしたようです。和歌山市は空襲に見舞われたので「いつ帰れるか分からない」ことから不安になるのは当然です。

さて和歌山大空襲を体験したIさんとEさんは、当時、学校からは「空襲があれば汀丁の公園に避難するように」と指示があったようです。ところが中心部に避難すれば焼夷弾が落ちてくると思ったので、この二人の小学生は紀の川に向いて逃げたそうです。当時、どこの家にも玄関先には用水があり、その用水の水で体を濡らせて、しかも防寒着も水で湿らせたうえで羽織って逃げたのです。

紀の川に辿り着いた小学生は、首まで紀の川に浸かってアメリカの飛行機が去っていくのを待っていたのです。

その時の心境は「首から上が熱くてたまらなかったのです。水に浸かっていなければ焼けてしまうと思いました」というものでした。

飛行機が去った後、中心部に戻るのではなくて、北島橋を渡り紀の川の北部に逃げようとしたのです。北島橋に這い上がると「多くの人が寝ていた」と思ったようですが、それは爆弾で焼かれてしまった遺体だったのです。子どもだったので、直ぐに遺体だとは思わなかったようですが、その体を避けるようにして北島橋を渡ったのです。

上原ハツさんは「北島橋から宇治の交差点に向かう道路は遺体で埋まっていた」と話してくれました。空襲を受けた直後の悲惨な状況が伝わってきます。

また同級生のお姉さんは学校の指示通りに汀丁に逃げたので、お城の近く、今の瀬戸病院の辺りで爆撃にあい焼死体になったそうです。Eさんは「私も汀丁に向かって逃げていたら今頃はいないと思います。家族は、とにかく水のある紀の川に逃げなくてはと言って中心部から離れたので助かったのです」と話してくれました。生死を分けたのは、この判断の違いも原因していたと思います。

このような和歌山大空襲の体験を聴く機会は少なくなりました。ハツさんは90歳、IさんもEさんも80歳代後半になっています。昨年の「うたかたコンサート」では、二人の体験談を聴かせてもらったのですが、「今年は、他にも和歌山大空襲を体験した人がいるので、その人に話をしてもらいたい」と言って、友人のハツさんを紹介してくれたのです。

この出会いを大事にしながら、和歌山大空襲の記憶を心と記録で留めたいと思っています。母親が語ってくれた和歌山大空襲の記録がない分、失われた記憶を取り戻したいと思っています。