活動報告・レポート
2023年8月1日(火)
ミッドアメリカ
ミッドアメリカ
ミッドアメリカ

1980年代からシカゴで発刊されていた「ミッドアメリカ」を創刊したのが上原将孝さんです。後に誌名を「日米ジャーナル」と変えますが、通算15年で第152号迄発刊したときにお亡くなりになり、第153号で廃刊になっています。お亡くなりになったのは1996年9月、平成8年のことですから、この新聞のことを語る人も少なくなっています。

ハツさんの自宅にはこの新聞のバックナンバーが保存されているので、読む機会を得ました。1980年代から1990年代にかけてのシカゴの風情が分かるもので「この新聞は玉手箱ですね」と話したほどです。

活字と写真には時代の空気というものがあり、80年代のアメリカと日本の経済的立場は今と逆で、世界でナンバーワンが日本でした。誌面でも日米の比較が掲載されていて「ジャパンアズナンバーワン」の様相が感じられました。

ただ当時と今も日米の気質は変わっていないことも分かりました。アメリカ人はストレートに言葉を使い、日本人は言葉が少ないため曖昧さを感じられていたようです。調和を図りながら仕事を進める日本人の気質は当時と変わっていないようです。

さてハツさんは「今ごろになって『ミッドアメリカ』を読み返すなんて思ってもいませんでした。光を当ててくれて弟も喜んでいると思います。今から27年も前のことなので、みんな忘れてしまっていると思いますし、再び読んでくれる人が現れるとは思ってもいませんでした。
そこで片桐さんにお願いがあります。いつかシカゴ大学の図書館に行って『ミッドアメリカ』を探してください。バックナンバーが図書館に保存されていると聞いていますが、私がシカゴに行くのはもう無理です。是非、行く機会があれば、読んでみてください。お願いいたします」と丁寧に話してくれました。

ミッドアメリカ

また平成8年9月に弟のお別れの会でハツさんが参列の皆さんに詠んだ「お礼の言葉」の原稿が出てきました。ハツさんは「読んでみます」と言って、当時と同じ心境でその原稿を読んでくれました。涙を浮かべながら読み終えて「聴いてくれて、ありがとうございます。弟も喜んでいます」と話してくれました。

故上原将孝さんは「ミッドアメリカ」を通じて日米の懸け橋になりたいと思っていました。記事と写真から当時の思いが伝わってきます。ハツさんの元に残された新聞と気持ちが、当時のシカゴと日本、和歌山県とつながっている空気を感じさせてくれました。

「どんな時代、どんな人の活動の足跡の中にも残しておくべき歴史がある」と感じました。

上原将孝さんは、丸紅に入社、ニューヨーク支店に異動となり、現地で勤務していましたが「自分が感じたことを自由に表現できる仕事ではない」と思い退社。シカゴに移り新聞を創刊しました。それが「ミッドアメリカ」なのです。日米の比較や日本文化の紹介、シカゴ大学教授からの寄稿など、当時の文化に溢れています。

ミッドアメリカ

個人的にはリンカーンに魅せられて「アメリカ全土にあるリンカーン像とその足跡を訪ねた」と聞きました。趣味は写真で「写真で真の姿を伝えたい」と思って紙面にも掲載したそうです。記事と写真を組み合わせることで、より一層時代の空気を感じ取ることができます。紙の質や活字のタイプなども、1980年代の時代感があります。

日本が経済大国であった1980年代のシカゴの空気を感じることができた、ハツさんとの時間となりました。

「片桐さんが私の話を聴いてくれたことに感謝しています。シカゴの話、弟の話は私限りで消えてしまうと思っていました。聴いてくれる人がいることで弟も『ミッドアメリカ』の紙面も浮かばれると思います。ありがとうございました」と伝えてくれました。

ハツさんの人を思いやる気持ち、日本を愛する心に感謝です。

その他
  • 和歌山文化協会茶道部会に参加しました。秋の行事計画と役割分担の確認と会員の近況報告を行いました。
  • お世話になっているYさんが、和歌山市を訪ねてくれたので懇談しました。和歌山市を外から見た意見を頂戴できました。