活動報告・レポート
2023年7月16日(日)
陸奥宗光と和歌山

第36回龍馬 World in 和歌山 不平等条約改正130周年記念プレイベントである「陸奥宗光と和歌山―不平等条約改正締結130周年に向けて−」を開催しました。主催は「紀州 宗光龍馬会」で、令和6年に和歌山県で開催する全国大会に弾みを持たせることを目指したものです。

陸奥宗光と和歌山

故郷の偉人陸奥宗光外務大臣と坂本龍馬との関係や二人が夢見た近代国家への道を語る講演会とパネルディスカッションとなりました。基調講演「外務省と不平等条約の改正」を担当してくれた竹内春久さん、「宗光、龍馬と出会った紀州の天才偉才たち」を担当してくれた岸本昌也さんに感謝しています。

竹内春久氏

竹内さんからは「外交とは毎日、少しずつ石を積み重ねるようなものであり、一気に得点することはない」と話してくれました。どんなことでも一気に逆転をできる事態はありません。毎日の積み重ね以外に結果を導く方法はないのです。

岸本昌也氏

また岸本さんからは、陸奥宗光伯と坂本龍馬に関係した紀州の偉人を紹介してもらいました。紀州には人材がいますが、地元でも知られていないことがあります。故郷の偉人のこと、その功績を伝える契機になりました。

さて講演会に続いてのパネルディスカッションに、パネリストとして登壇しました。質問は次の二点でした。

  1. 地元から見た陸奥宗光とはどんな存在だったのか。龍馬との関りは。
  2. 坂本龍馬が明治維新後も生きていた場合、どんな方法で不平等条約改正につなげたと思いますか。

以下の回答をしました。

1.陸奥宗光は小学校の学習指導要領で「習うべき歴史上の人物42人となっています。しかし陸奥宗光外務大臣のことを習った記憶のある人は少ないと思います。地元の僕も名前は習った記憶がありますが、何をした人なのか学校での記憶はありません。その名前と功績を知ったのは父親からでした。

和歌山市には岡公園という和歌山城の隣に公園があります。ここに連れて行ったもらったとき陸奥宗光先生乃像の前で教えてもらったのです。

「この人は和歌山県出身の外務大臣で、列強との間で交わされていた不平等条約を改正した人だ」と。それが故郷の偉人を知るきっかけだったんですね。

陸奥宗光伯のことを語り始めると1時間ぐらいかかるので割愛しますが、教科書で習うべき人物であっても、この程度なんですね。そんな宗光の兄貴分が坂本龍馬ですが、教科書で習うべき人物に入っていないのですよ。これはおかしいと思います。

来年の「龍馬World in和歌山」では坂本龍馬を学習指導要領で「習うべき人物」になるよう、和歌山県から発信したいと考えています。歴史は単独では成り立ちません。宗光と龍馬の関係を伝えなければ歴史像は見えないので、龍馬は習うべき人物として取り入れるような活動をしたいと考えています。

そして陸奥宗光から話は反れますがご容赦お願いいたします。

坂本龍馬と紀州藩との間で起きた事件が「いろは丸事件」です。「いろは丸事件」のことを学ぶために「いろは丸事件と竜馬」の本を読みました。読む前は、龍馬が正義で紀州藩が悪役だろうと思っていたのですが、書かれていることは逆で、紀州藩が正義で龍馬がヒールだったのです。紀州人として拍手喝采ではありませんか。

龍馬はヒーローですし紀州藩もヒールではなかったことを伝えたいと思うのです。歴史は史実が基本ですが、語る人によってヒーローにもヒールにもなります。「どちらが正義だったのか」の問題ではなく、歴史になっている事実はどうだったのかがロマンであり、龍馬にとっても紀州藩にとっても、事実を解明できるなら脚光を浴びることになるのです。

そこで「いろは丸」を調査して引き上げようという話で、私達はこの10日間ほど盛り上がっています。日本でただ一人、サルベージを仕事にしている人がいます。松田さんという方ですが、「いろは丸を引き上げよう」と計画を練ろうとしているところです。できたら令和6年の「龍馬World in和歌山」で引き上げることを発表したいと思っています。これは 龍馬会にとっても紀州にとっても歴史的な物語になります。

沈没船を引き上げることに関して日本の法律を調べてからの話になりますが、松田さんと「紀州 宗光龍馬会」とで「いろは丸」を引き上げることを考えています。

来年の和歌山県で開催する全国大会では「坂本龍馬を学習指導要領に記載して教科書で習うべき人物に指定する」ことと「いろは丸」を引き上げることを発信する大会にしたいと考えていますので、皆さんのご協力をお願いいたします。

2.外務省や大学教授は仮定の話には答えにくいと思いますが、僕は自由人なので答えられると思います。坂本龍馬と陸奥宗光は師弟関係にあったので、考えることは一緒だったと思います。陸奥宗光外務大臣が取ったのと同じ方法で不平等条約改正に挑んだと思います。

陸奥宗光外務大臣以前からも不平等時ようやく改正に向けて列強との交渉はしていました。陸奥の前の鹿鳴館外交もそうですし、岩倉外交ではまずアメリカと交渉していました。その以前はイギリスと交渉をした経緯がありますが失敗に終わっています。

当時パックス・ブリタニカの時代ですから、最初からイギリスと交渉しようと考えることはあり得なかったと思います。今を思ってください。現代の覇権国はアメリカ、パックス・アメリカーナですから、覇権国に対して「これは日本にとって不平等だから改正してください」と要求することは言えないと思います。言えないことはないにしても、直接、言いにくいことを覇権国と交渉することは困難だと思います。それよりも「まずはやりやすい国から交渉しよう」と考える方が近道だと思います。

ところが陸奥宗光伯は覇権国と交渉をしたのです。当時の事情からするとロシアの南下などイギリスにとって好ましくない状況があったのですが、やはり覇権国と交渉することは決断がいったと思います。

陸奥宗光伯は「強いものに向かっていった」のです。この姿勢は指定に共通しているものなので、坂本龍馬が生きていた場合、不平等条約改正の最初の相手国としてイギリスを選んだと思います。龍馬の夢を宗光が引き継いだと思っているので、世界が認める一等国になるために、龍馬も列強との間の不平等条約改正に挑んだと思いますし、その考え方は「まずは一番強いものを相手にする」ことだったと思います。

竜馬の精神を維新の志士達は受け継いでいますし、宗光が成し遂げたのと同じ思考で龍馬も取り組んだと思います。

来年の「龍馬World in和歌山」では、龍馬と宗光が成し遂げた近代国家の仲間入りした偉業を伝えたいと思いますし、龍馬の意思は宗光に伝えられていることを和歌山県から発信したいと思っています。

以上がパネルディスカッションでの僕の回答です。会場にお越しいただいた皆さんに深く感謝しています。