活動報告・レポート
2023年5月30日(火)
下関市からの便り
下関市からの便り

「陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会」の立谷誠一会長が、下関市にある日清講和記念館には、伊藤博文像と陸奥宗光像があることを知らせてくれました。これは日清講和会議において日本側の全権を務めた当時の伊藤博文総理大臣と当時の外務大臣だった陸奥宗光伯の胸像です。

この銅像は昭和12年6月の日清講和記念館開館に前後して制作されたものだそうで、作者は山口県平生町出身の彫刻家河内山賢祐氏です。伊藤博文像は昭和12年、陸奥宗光像は昭和13年の作品となっています。

日清講和会議の解説は「日清講和記念館」のホームページから以下に引用します。

朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに開戦しました。この戦争は日清戦争と呼ばれ、戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、翌年清国は日本に講和の打診を始めます。

明治28年(1895)3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊しました。翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催されました。この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席しました。

講和に向けて会議はくり返しおこなわれ、4月17日に講和条約が調印されました。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示できる最適な場所であったからです。事実、日本の軍船が大陸に向かい狭い海峡を通過する光景は、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開したといわれます。

このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束しました。

このときの主役が伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣だったのです。二人の偉人の銅像のことを知らせてくれた「陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会」の立谷誠一会長は、下関市在住の大学教授から、「下関市民は二人のことを尊敬しています。記念館があることや銅像が建立されていることから、市民は二人の存在と功績を知っているのです。今も二人は市民の誇りであり、その一方の雄である陸奥宗光伯が生まれた和歌山市との交流をしたいと思っています。陸奥宗光伯の顕彰をしている皆さんには、是非とも下関市にお越しください。意見交換ができれば嬉しいことです」とメッセージを伝えてもらいました。

会長からは「是非、一緒に下関市を訪れてくれませんか。この記念館と偉人の銅像を見たいと思います。そして大学教授と意見交換の機会を持ちたいと思っています」と話をいただきました。

和歌山県の偉人である陸奥宗光伯のことを下関市民が「尊敬している」という話を伺って、同市の故郷教育や偉人教育、そして偉人顕彰のあり方に関心を持ちました。大学教授が「市民の誇り」と表現してくれていることは有り難いことであり、和歌山市出身の偉人のことも伊藤博文元総理大臣と同等に扱ってくれていることを嬉しく思うのです。

翻って「和歌山市民の陸奥宗光伯に対する意識はどうなのだろうか」と思いました。

「誇りに思っている」「尊敬している」という声を聴くことは少ないですし、偉人の話で盛り上がっている場面に遭遇したことはありません。

高知市では坂本龍馬談義を交わしたことがありますし、鹿児島市では西郷隆盛氏を自慢する話を何度も聞きました。下関市では伊藤博文氏を尊敬している話と共に陸奥宗光伯を尊敬している話を聞かせていただき、嬉しいのと同時に「和歌山市ではどうなのだろう」と思ってしまいました。

下関市から届いた話で話し合ったことから、今一度、わが故郷の偉人を考える契機となりました。

その他
  • 団体の研修会で挨拶の機会をいただいたので、参加者の皆さんに感謝の気持ちを伝えさせてもらいました。
  • 役所のOBの方々が激励のため懇談会を開催してくれました。僕のために激励の機会を設けてくれたことに感謝しています。
  • 自治会内のゴミ置き場の問題について協議を行いました。個人の問題を自治会の問題として扱うことの難しさも感じています。
  • 市内の団体の研修会にて挨拶の機会をいただきました。お世話になったことの感謝の気持ちと、県政の抱負を伝えさせてもらいました。